黄南鵬とは? わかりやすく解説

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黄南鵬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/13 13:24 UTC 版)

黄南鵬
『軍事月刊』第4期(1941年)
プロフィール
出生: 1900年10月9日[1][注 1]
死去: 没年不明(1985年時点では存命)
出身地: 台湾[2](一説に福建省漳州府詔安県[1][3]
職業: 軍人・軍務官僚・政治活動家・美術家
各種表記
繁体字 黃南鵬
簡体字 黄南鹏
拼音 Huáng Nánpéng
ラテン字 Huang Nan-p’eng
和名表記: こう なんほう/こう なんぽう
発音転記: フアン・ナンポン
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黄 南鵬(こう なんほう/こう なんぽう、1900年10月9日 – 没年不明)は、台湾中華民国の軍人・軍務官僚・政治活動家・美術家。在日華僑。別号は翼雲[3]中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会では、台湾出身ながら[注 2]軍事の要職を歴任している。戦後は日本へ亡命し、台湾独立運動に従事した。

事績

初期の活動

南京国立東南大学卒業後に、日本へ軍事留学している。日本陸軍士官学校第18期歩兵科を卒業しており[1]、同期には湯恩伯らがいる[4][注 3]

その後は中国に戻り、国民政府中央軍で団長となる[1]1933年民国22年)から1934年(民国23年)にかけて、黄南鵬は福建事変に参加することで蔣介石に反抗したものの、敗北して台湾経由で日本へ逃れたという[4]

親日政権での活動

1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(冀東防共自治政府)を樹立すると、黄南鵬もこれに参加したというが[2]、具体的な地位・職官は不詳である。

王克敏北京中華民国臨時政府を樹立すると、黄南鵬もこれに参加する。1938年(民国27年)5月、治安部(総長:斉燮元)建制局局長に抜擢された[5][6][注 4]。翌1939年(民国28年)10月、治安軍陸軍第2集団司令(駐屯地:保定)に起用された[7]。また、軍職以外には華僑協会董事(理事)もつとめている[1]

1940年(民国29年)3月、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会が成立しても、黄南鵬は治安軍第2集団司令に重任した[注 5]1943年(民国32年)1月、治安軍第2集団司令を離れ、陸軍軍官学校教務長代理に移った[8]。同年10月10日、国民政府中央から陸軍少将位を授与されている[9][注 6]。このほか、冀東行営主任や憲兵司令などを歴任したとされる[2]

日本亡命、台湾独立運動

汪兆銘政権崩壊後、黄南鵬は漢奸として逮捕された。1946年(民国35年)、軍事委員会委員長北平行営主任・李宗仁が主宰する軍事法廷において、他の22人の被告[注 7]と共に審理されたが[10]、黄の最終的な判決については不詳である。いずれにしても収監されていたが、中国人民解放軍北京市に迫る直前に釈放され、香港へ脱出した[2]

1950年(昭和25年)、日本へ亡命する。廖文毅らと台湾独立党を結成し、黄南鵬は同党副主席となった。しかし、主席の廖とは意見が合わず、1954年(昭和29年)に台湾独立党を脱退している(原因につき後述)。黄は新たに台湾民主独立聯盟を結成し、林献堂を総裁として推薦、自らは総裁代理となった[2]。このため、1955年に廖が樹立した台湾共和国臨時政府には、黄は参画していない。

台湾独立党以外の黄南鵬の活動としては、1953年(昭和28年)10月、岡村寧次和知鷹二らの支援を受け、中国人対日協力者の団体である「在日中国人更生会」を設立したことが挙げられる。しかし、会内部の対立により早期で自然消滅となった[11]。また、曹若山・陳中孚らの亜細亜友之会にも、黄は常務幹事として参加している[12]

晩年

晩年の黄南鵬は日本画壇で活動し、昭和40年(1965年)頃から美術名鑑類に名前が載るようになる[注 8]。その記載によれば中国新美協会委員、創元会友などとされている。『美術手帖年鑑 ‘86』(美術出版社)、189頁では、洋画団体・大洋会の会員として黄の名が掲載されているが、翌’87年の同年鑑からはその名が消えた。その他の情報も見当たらず、1986年以降の動向は不詳となっている。

台湾独立党での争い

台湾独立党における廖文毅との対立・決裂については、「民族論の相違と政治資金の使途についての暗闘が原因」との指摘がある[注 9]

「民族論の相違」とは、具体的には台湾独立党が構想する「台湾共和国」においての公民選挙有権者資格をめぐる問題であった。この点につき黄南鵬は、台湾に居住するあらゆる住民(大陸から逃れてきた中国人、先住民たる高山族、在台日本人なども含む)に有権者資格があり、かつ、公民選挙の結果として蔣介石が元首として選出されても容認すべき旨の考えであった。ところが廖文毅は黄の見解に反対し、昭和20(1945)年8月15日に台湾籍を持つ者とその子孫のみを有権者にすべき、と強硬に主張したのである。

「政治資金の使途」については、独立民主党支持者某の政治資金350万円を持ち逃げした、などとして、廖文毅が黄南鵬を糾弾している。しかし黄は否定しており、真相は不明である。

脚注

注釈

  1. ^ いったん、北京興信所編(1939)に従う。霞関会編(1957)、196頁は「現在五十五歳」としており、これに従えば1901年または1902年生まれとなる。また、1965年以降の美術年鑑類では「明治41年」(1908年)生や「明治42年」(1909年)生などと記述されており、安定していない。ただし、黄南鵬は陸士第18期卒(1927年卒)であり、湯恩伯(1899年生)と同期であることを考えても、美術年鑑類の生年では年少に過ぎる問題がある。
  2. ^ ただし、任官時は「福建省詔安県」の人と称していたと考えられる。なお、祖籍が実際に福建詔安の可能性はある。
  3. ^ 井口静波は当該記事で「廿八期生」と記述しているが、明らかに誤りである。また、井口は同記事において、黄は早稲田大学で修学してから陸軍士官学校に入学したものとして記述している。
  4. ^ 霞関会編(1957)、196頁は「軍務局長」としているが、誤り。そもそも臨時政府治安部には「軍務局」という局自体が存在しない。
  5. ^ 重任に関しては『華北政務委員会公報』において直接の確認は取れない。華北政務委員会治安総署が刊行した『軍事月刊』第4期(1941年11月)において、黄南鵬は司令として写真が掲載されている。
  6. ^ 「抗日戦争華北偽軍的序列資料大全」抗日戦争紀念網、2018年12月26日では、1941年11月1日、「陸軍中将に昇進」としている。
  7. ^ 邵文凱栄臻らが含まれ、この2名は死刑判決を受けた(ただし両者の執行状況は不明で、栄については未執行のまま1960年に病没)。他の著名人としては、田文炳秦崋がいる。
  8. ^ 最初期の例として、『美術名典』昭和40年度版(芸術新聞社)、117頁がある。
  9. ^ 本節は、「日本マタに派手な政治運動 台湾、中国を逃れた革命家たち」(『週刊東京』2巻37号通号56号、1956年10月13日、東京新聞社、3-4頁)に拠って記述する。

出典

  1. ^ a b c d e 北京興信所編『北支蒙疆商工人事興信録』昭和十四年版、288頁。
  2. ^ a b c d e 霞関会編(1957)、196頁。
  3. ^ a b 劉ほか編(1995)、1415頁。
  4. ^ a b 井口静波「宣伝支那」『中央公論』52巻14号通号603号(臨時増刊「国民皆読」版)、昭和12年12月10日、中央公論社、本篇320頁。
  5. ^ 臨時政府令、令字第201号、民国27年5月20日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第18号、民国27年5月23日、3頁)。
  6. ^ 東亜同文会業務部編『新支那現勢要覧 第二回(昭和十五年)』、945頁。
  7. ^ 臨時政府令、令字第475号、民国28年10月6日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第106・107号合刊、民国28年10月16日、5頁)。
  8. ^ 華北政務委員会令、会字第735号、民国32年1月23日(『華北政務委員会公報』第189·190期合刊、民国32年2月19日、本会2頁)。
  9. ^ 『日文国民政府彙報』第202号、民国32年11月6日、中国和文出版社、2頁。
  10. ^ 「北平軍事法庭審判日本戦犯往事(下)」抗日戦争紀念網、2017.8.24.
  11. ^ 関智英「中国人対日協力者の戦後と日本 ―善隣友誼会設立への道-」『中国 社会と文化』第31号、2016年7月、中国社会文化学会、168-169頁。
  12. ^ 国勢協会編『国勢総覧 第18版』国際連合通信社、1958年、837頁。

参考文献

  • 霞関会編『現代中国人名辞典』江南書院、1957年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 



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