鷲見家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:36 UTC 版)
(鳥取県米子市尾高町、東京都、武家家伝_鷲見氏) 鷲見家はもと美濃国山縣郡高富村(現在の岐阜県山県市高富)の地侍(国人)であったが、鼻祖五郎兵衛が池田恒興に仕え、以後代々池田氏 の家臣として、姫路から岡山へと従った。 五郎兵衛の孫にあたる彦右衛門は藩祖光仲の家臣で光仲が備前から因幡へ国替えになったのに従って鳥取に来たが、米子城警固の役目である“米子組士”に命ぜられ、作事奉行の役を仰せつかって米子に移住した。その後、子孫は普請奉行、破損奉行、あるいは御天守御道具奉行など米子城の保守にかかわる任務を勤めた者が多かった。 幕末8代左平太のとき、弟正人は分家して一家を構えた。そして正人の嫡男房太郎は森いわを妻に迎え、7人の子をもうけた。森家は内町の河口神社の神官の家柄であったが、いわは聖公会を信仰する開明的な婦人で、子供たちを聖公会の経営する良善幼稚園に通わせた。 鷲見家では夜になると、歌をうたったり、合奏したりして賑やかであった。男兄弟はみな音楽が好きで、長じて音楽を生涯の伴侶とした。わけても三郎は、バイオリンの優れた指導者として多くのバイオリニストを育てた。 長男・健彰(桐朋学園大学音楽学部名誉教授) 二男・康郎 孫の鷲見恵理子、弟の鷲見四郎は同じくバイオリニストである。末弟の鷲見五郎はピアニストとなった。 ┏太郎左衛門 五郎兵衛━┫ ┏左平太 ┗与三右衛門━彦右衛門━中左衛門━利藤次━彦右衛門━五郎左衛門━連兵衛━孫兵衛┫ ┗正人━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┃ ┏孟 ┃ ┃ ┃ ┣二郎 ┃ ┏栄太郎 ┃ ┏健彰━━恵理子 ┗━━┫ ┣三郎━━╋玲子 ┗房太郎 ┃ ┗康郎 ┣━━━╋愛子 いわ ┃ ┣求 ┃ ┣四郎 ┃ ┗五郎
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