魔女裁判への対処
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)
「ウィリアム・フィップス」の記事における「魔女裁判への対処」の解説
「セイラム魔女裁判」および「ペマキッドの戦い (1696年)」も参照 フィップスは、ヌーベルフランスへの次の遠征の支援は受けられなかったが、その代わりに、インクリース・マザーや植民地代表部と行動をともにし、マサチューセッツへの新しい勅許を入手するための努力をした。マザーの数多い勅許の要請は拒否されたが、ウィリアム3世・メアリー2世は、マザーに次のマサチューセッツ総督の候補を選ばせることでマザーを懐柔した。マザーの提言により、両君主は新たに発せられた勅許状の下での新生マサチューセッツ湾直轄植民地の総督にフィップスを任命した。この勅許によれば、マサチューセッツ湾植民地はかなり広くなっており、かつてのマサチューセッツ湾植民地のみならず、プリマス植民地やケープコッドの南の島々、マーサズ・ヴィニヤードやナンタケット、現在のメイン州にカナダのニューブランズウィック州、ノバスコシア州までもが組み込まれていた。 1692年の5月14日にボストンに戻った時、フィップスは、マサチューセッツ湾直轄植民地が魔女裁判の興奮で手がつけられなくなっているのに気づいた。この年の2月に、125人以上の人々が魔女狩りで逮捕され、新政府の発足もまだなされないまま、牢につながれていた。5月27日、フィップスは、このたまりにたまった懸案を公聴するため、特別に刑事犯採決の場を設け、副総督のウィリアム・ストートンを主審判事に任命した 。この悪名高き裁判は幻覚による証拠を認め、法律顧問へ告訴するのを認めず、このような証拠により多くの人々が有罪の判決を受けた。 1692年の9月に裁判は終わったが、フィップスの妻を始め、かなり明確な態度を示す人々への非難を含む告発と逮捕が続いた。フィップスは最終的に、裁判を中断して審理に終止符を打ち、1693年の5月に魔女と思われて逮捕された人々約150名を釈放した。
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