小松済治
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小松 済治(こまつ せいじ、1848年(嘉永元年11月[* 1]) - 1893年(明治26年)5月12日)は、幕末期の会津藩が派遣したドイツ留学生で、明治維新後は紀州藩藩士を経て岩倉使節団随員、司法省民事局長[1]等を歴任した。旧名馬島済治。
- ^ 『海を越えた日本人名辞典』、『明治過去帳』では弘化4年。
- ^ 『日下義雄伝』では馬島瑞延は紀州出身で、会津藩に出仕するに際し、小松から馬島に改姓している。
- ^ 維新前は馬島姓であるが、煩雑を避け「小松」で統一して記述する。
- ^ 出生地については、母安藤氏の実家がある郡山などの説もあるが、小松自身が江戸を出生地として学籍登録している。
- ^ 幕末期の会津藩士には脱藩覚悟の出国を目指した小出光照、イギリス留学を藩に働きかけていた栃木辰次郎など、外国留学を目指す人物がいた。
- ^ 紀州藩3000挺、会津藩1300挺の後装銃である。レーマンは撃針歩兵銃などを購入し、明治維新後の紀州藩に強力な軍事力をもたらした。
- ^ 従来は赤星研造とされていたが、赤星の在籍は1870年からである。
- ^ 荒木康彦(近畿大学教授)は、小松が明治憲法制定に何らかの寄与をしている可能性を指摘している。
- ^ “官報第1411号”. 国立国会図書館. 2014年6月22日閲覧。(画像2枚目)
- ^ 松野良寅『会津の英学』(歴史春秋社)223頁
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』32頁
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』35-36頁
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』37-38頁
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』107頁
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』24頁
- ^ a b 『近代日独交渉史研究序説』171頁
- ^ 『日下義雄伝』(日下義雄伝記編纂所、1928年)、第七章(51-56頁)
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』176頁
- ^ “職員録・明治七年四月 - 十二月・職員表(陸軍)”. JACAR Ref.A09054284000、職員録・明治七年四月 - 十二月・職員表(陸軍)(国立公文書館). 2014年6月22日閲覧。画像10枚目
- ^ 『近代日独交渉史研究序説』177頁
- ^ a b 『近代日独交渉史研究序説』185頁
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