韓・趙の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)
詳細は「秦の統一戦争」を参照 秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった。 秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)。 秦王政18年(前229年)、秦は王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。次の標的になった趙には、幽繆王の臣の郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害 につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。 秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。 趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。
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