韓・魏・趙の独立と晋の滅亡
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「晋 (春秋)」の記事における「韓・魏・趙の独立と晋の滅亡」の解説
春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の4氏6家系により支配されるようになり、他の有力大夫を排除して六卿を世襲するようになっていた。定公のとき(紀元前490年)に范氏・中行氏が亡んだ際、二氏の旧領のうち二都市を趙氏が得た他はほとんどの領地が一旦は晋公の直轄となったものの、残りの四氏の権勢は衰えなかった。後に出公のときに范氏・中行氏の旧領を四氏が分割しようとしたため、これに怒った出公が斉や魯と同盟して四氏を討とうとした(紀元前458年)ものの失敗し、出公は斉への亡命の途上で死去した。これで晋室は全く力を失った一方、四氏のうちでは智氏が最も強大となった。紀元前454年、智氏の当主だった智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎と魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを促し、これに成功する。紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙・韓・魏の三者が分け合い、それぞれ独立した(晋陽の戦い)。晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土を確保したが、三氏をおそれて晋公の方が逆に三氏に入朝し、哀公以下5代に渡って存続した。紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の君臣関係ですらなくなった(実際の三氏は諸侯になった後もしばらくの間はなお晋の家臣としての称号も自称していた)。紀元前376年、韓・魏の連合軍が晋に侵攻した。この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったが最終的には陥落し、最後の君主の静公が城を出て庶民となり晋は滅亡した。なお、趙・魏・韓の三国を三晋と呼ぶ。また魏を単独で晋と呼ぶこともある。
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