韓・魏・趙の独立と晋の滅亡とは? わかりやすく解説

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韓・魏・趙の独立と晋の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:26 UTC 版)

晋 (春秋)」の記事における「韓・魏・趙の独立と晋の滅亡」の解説

春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏中行氏・趙氏韓氏魏氏の4氏6家系により支配されるようになり、他の有力大夫排除して六卿世襲するようになっていた。定公のとき(紀元前490年)に范氏・中行氏が亡んだ際、二氏の旧領のうち二都市を趙氏得た他はほとんどの領地が一旦は晋公の直轄となったものの、残りの四氏の権勢衰えなかった。後に出公のときに范氏・中行氏の旧領を四氏が分割しようとしたため、これに怒った出公が斉や同盟して四氏を討とうとした(紀元前458年)ものの失敗し出公斉へ亡命途上死去した。これで晋室は全く力を失った一方、四氏のうちでは智氏が最も強大となった紀元前454年智氏当主だった智瑶韓氏魏氏引き連れて趙氏滅ぼそうとした。趙氏当主趙無恤は、韓氏韓虎魏氏魏駒に「智氏強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返り促し、これに成功する紀元前453年三家攻められ智氏滅亡し、晋の領土を趙・韓・魏の三者分け合いそれぞれ独立した晋陽の戦い)。晋は曲沃と絳の2都市中心とするわずかな領土確保したが、三氏をおそれて晋公の方が逆に三氏に入朝し、哀公以下5代渡って存続した。紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室三家はこの時点名目上君臣関係ですらなくなった実際の三氏は諸侯になった後もしばらくの間はなお晋の家臣としての称号自称していた)。紀元前376年、韓・魏の連合軍が晋に侵攻した。この時晋は難攻不落攻撃軍はかなり手間取ったが最終的に陥落し最後君主静公が城を出て庶民となり晋は滅亡した。なお、趙・魏・韓の三国三晋と呼ぶ。また魏を単独で晋と呼ぶこともある。

※この「韓・魏・趙の独立と晋の滅亡」の解説は、「晋 (春秋)」の解説の一部です。
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