青木家の治世
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元和元年(1615年)、摂津豊島郡川辺郡の一部1万2千石で青木一重を藩主として成立した。元和3年(1617年)までに一重は旗本で弟の可直に2千石を分知したため1万石となった。 元和5年(1619年)、一重は可直の子の重兼を養嗣子にして跡を継がせた。同じく一重の養子で廃嫡された青木正重は寛永年間、重兼を補佐している。寛永3年(1626年)には菟原郡および伊予国の所領は摂津国豊島郡・川辺郡に移された。 重兼には娘しかおらず、寛文12年(1672年)に徳川家最古参の譜代筆頭である酒井家と越前朝倉家の血をひく重正を養嗣子(婿養子)とした。重正は大番頭や側衆を務め、将軍徳川綱吉から厚い信任を受けた。元禄6年(1693年)8月15日に69歳で亡くなったが、この時も綱吉から侍医の森雲仙らを派遣されている。 以後、麻田藩は江戸時代を通じて青木家が治めたが、寛文年間に黄檗宗仏日寺の伽藍建築を行ったため、藩財政は窮乏した。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のちに藩札の管理は領民に委ねられた。 明治4年(1871年)に廃藩置県を迎え、麻田藩は麻田県となった。藩主青木家は華族に列し、明治17年(1884年)の華族令でに子爵に叙爵された。
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