開墾奨励(仕明地政策)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
薩摩から土地の開墾(仕明:しあけ)許可を取り付けた羽地は、1669年、間切(まぎり:現在の郡に相当)や村、さらにはそこを統治する地頭や百姓たちに至るまで、広く仕明奨励策を打ち出した。仕明した土地は「永々」にその所持を許されたという。 島津氏の侵攻の直後、慶長年間に検地が行われて以来、約60年に渡り検地が行われていなかった。その影響により水害による荒廃や荒れ地が点在するようになり、慶長検地にて定められた耕地への税率と羽地時代のものとでは大きな食い違いが生まれていた。このため、現実にそぐわない重税を百姓が担わねばならない状態にあった。そこで羽地は、定められた税率と実際の税率の格差を縮めることを口実に薩摩に仕明の許可を願い出たのである。 この政策はかなりの成果をあげたようで、羽地の死後も継続して行われた。ところが、17世紀の末頃には、耕地拡大は達成されていくものの次第に乱開発や燃料、飼料の枯渇という事態が出来したために、王府は仕明抑制策を取ることとなった。
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