閉店の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/18 02:40 UTC 版)
1941年夏、日米関係の悪化に伴い、店長下間豊吉が大阪本社での重役会議出席のため帰国したところ、7月21日日本の仏印進駐を受けて在米日本資産凍結令が出され、日本への資産の移動、商品の仕入れ等が不可能となった。下間豊吉もアメリカに戻れなくなり、永井寿三が店長に代わった。 8月12日大阪本社では、ボストン、シカゴ店をニューヨーク店に一本化することが決議され、アメリカ側で対応を検討中、12月7日真珠湾攻撃が勃発し、即日財務省の管理下に置かれ閉店した。1942年2月立ち退きセールを行うと人が殺到し、1週間の売上が17,500ドルに達したという。 6月16日敵国資産管理人局(英語版)の支配に移り、同局からチャールズ・R・ギルが派遣され、後にロバート・S・ネイヤーが代わった。資産の清算後、1944年3月末閉店し、残りの在庫の内価値の高いものはニューヨーク店に送られ、残りはメイシーズ百貨店に渡った。 1945年7月16日法人の解散届が提出されたが、固定資産税の訴訟のため受理されず、1946年以降に受領されたと思われる。 戦後、シカゴでは永井寿三が個人で美術商を続けた。
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