長期の闘病、死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
1917年の春ごろ、梅子は体調を崩して入院する。2ヶ月後に退院したものの、その後も入院と退院を繰り返した。3度の入院を経てこれ以上塾長を務めることが難しいと自覚した梅子は、1919年の1月初めに塾の社員会に対して辞意を示した手紙を送った。同年2月に辻マツが塾長代理として就任し、梅子は塾長としての実質的な活動を終えた。 1919年の10月ごろ、親戚一同の計画で建てられた北品川御殿山の住居が完成する。4度目の入院をしていた梅子は退院後ここに移り住み、以後10年間この家で過ごした。 1928年11月12日、昭和天皇即位の大典に際して勲五等に叙せられ、瑞宝章を授けられる。 1929年1月、弟・純の四男真を養嗣子として迎える。同年7月には、鎌倉の別荘に移り住んだ。 昭和4年(1929年)8月16日、脳出血のため死去。満64歳没。梅子の葬儀は、東京市麹町区五番町の女子英学塾講堂での校葬(キリスト教式)として行われ、会葬者は約1千人に上り、昭和天皇と皇后から祭祀金一封が下賜された。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
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