鈴茂林の仇討ち
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文明14年(1482年)9月、現八と大角、信乃と道節の四犬士は、武蔵国穂北荘で邂逅する。氷垣残三が率いる穂北荘は、結城合戦の残党や豊島家の遺臣など、管領家を快く思わない郷士たちの自治の里であった。当初は盗賊と間違えられるという出会い方をした犬士たちと穂北荘であるが、残三の娘である聡明な重戸の判断や伏姫神の加護もあって誤解は解け、犬士たちはこの地を新たな拠点とすることになる。現八と大角はいったん指月院に行き、荘助・小文吾と合流することになった。 そのころ毛野は物四郎と名乗り湯島天神で放下師となっていた。文明15年(1483年)1月20日、扇谷定正夫人蟹目前の猿を救ったことから、毛野は蟹目前および扇谷家の忠臣・河鯉守如の知遇を得る。力量を見定められた毛野は、蟹目前と河鯉守如から奸臣・竜山免太夫の殺害を依頼される。竜山免太夫こそは、毛野の仇・籠山逸東太であった。翌日小田原北条家に使節として派遣される籠山を襲撃する計画が立てられるが、これを立ち聞きした道節は毛野の仇討ちに乗じ、穂北郷士たちとともに挙兵することを計画する。その夜、六犬士は司馬浜に結集するが、この場所は船虫が辻君をしながら強盗殺人を行う場所であった。犬士たちとさまざまな悪因縁を持つこの悪女は、出陣の門出として牛の角で誅戮された。 1月21日、鈴茂林(すずのもり)で毛野が籠山を討って本懐を遂げたころ、信乃は扇谷家の本城である五十子城を攻め落とし、道節は出陣した定正の軍勢を打ち破る。戦場に駆けつけた河鯉孝嗣(守如の子)から、蟹目前と河鯉守如が自害したことを聞かされた犬士たちは、毛野と道節らが通謀していたわけではないことを説明して兵を退いた。 指月院を後任の住持に引き渡した丶大は、下総結城で結城合戦戦死者の大法要を行うこととした。七犬士たちは結城に向かう。
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