鈴茂林の仇討ちとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鈴茂林の仇討ちの意味・解説 

鈴茂林の仇討ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:36 UTC 版)

南総里見八犬伝」の記事における「鈴茂林の仇討ち」の解説

文明14年1482年9月、現八と大角信乃と道節の四士は、武蔵国穂北荘邂逅する。氷垣残三率い穂北荘は、結城合戦残党豊島家遺臣など、管領家快く思わない郷士たちの自治の里であった当初盗賊間違えられるという出会い方をした士たちと穂北荘であるが、残三の娘である聡明な重戸の判断伏姫神の加護もあって誤解解け士たちはこの地を新たな拠点とすることになる。現八と大角はいったん指月院に行き荘助小文吾と合流することになった。 そのころ毛野は物四郎名乗り湯島天神放下師となっていた。文明15年1483年1月20日扇谷定正夫人蟹目前救ったことから、毛野蟹目前および扇谷家忠臣河鯉守如知遇を得る。力量見定められた毛野は、蟹目前河鯉守如から奸臣竜山太夫殺害依頼される竜山太夫こそは、毛野の仇・籠山逸東太であった翌日小田原北条家使節として派遣される籠山襲撃する計画立てられるが、これを立ち聞きした道節は毛野仇討ち乗じ穂北郷士たちとともに挙兵することを計画するその夜、六士は司馬浜に結集するが、この場所は船虫辻君しながら強盗殺人を行う場所であった士たちとさまざまな悪因縁を持つこの悪女は、出陣門出として牛の角誅戮された。 1月21日、鈴茂林すずのもり)で毛野籠山討って本懐遂げたころ、信乃扇谷家本城である五十子城攻め落とし、道節は出陣した定正の軍勢打ち破る戦場駆けつけた河孝嗣(守如の子)から、蟹目前河鯉守如自害したことを聞かされ士たちは、毛野と道節らが通謀していたわけではないことを説明して兵を退いた指月院を後任住持引き渡した丶大は、下総結城結城合戦戦死者大法要を行うこととした。七士たちは結城に向かう。

※この「鈴茂林の仇討ち」の解説は、「南総里見八犬伝」の解説の一部です。
「鈴茂林の仇討ち」を含む「南総里見八犬伝」の記事については、「南総里見八犬伝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鈴茂林の仇討ち」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鈴茂林の仇討ち」の関連用語

鈴茂林の仇討ちのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鈴茂林の仇討ちのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南総里見八犬伝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS