金立殺害と風評に関する疑惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:04 UTC 版)
1922年初頭、上海臨時政府は「レーニンが送った独立運動の資金を流用した」と金立を糾弾した。金九の配下の呉冕稙、盧鍾均が1922年2月11日に、上海で金立を射殺した。 金九は著書『白凡逸志』の中で、金立がレーニンから支給された金で、北間島にいる自分の家族のために土地を購入し、共産主義者だという韓国人、中国人、インド人にいくらかずつ支給した。そうして自分は上海に密かに潜伏して広東の女を妾にして享楽に耽っていたと主張した。 韓国外国語大学の韓国史学教授である潘炳律の研究によると、金立が横領を行ったという話は事実とは言い難く、政敵の間に流布した風評だった。レーニン政府の望み通り、金立とその同志たちは三度に渡って数万ルーブルの資金を韓人社会党に苦労して運搬し、韓・中・日左派革命家たちの事業費として使うようにしたが、その資金が金九ら臨時政府の右派指導者の手に入らなかったことが禍根を残したという。 ノルウェーのオスロ大学韓国学教授である朴露子は、これに対して「同族テロ」と批判した。朴によると、この暗殺を“正当な報復”として主張した『白凡逸志』の権威が絶対的であったために、これまで金立が相応の対価を受けたという通説が疑われた事はほとんどなかったという。金九の著述の中で金立が享楽に耽ったという根拠も示されておらず、これらも風評ではないかという反論がある。
※この「金立殺害と風評に関する疑惑」の解説は、「金九」の解説の一部です。
「金立殺害と風評に関する疑惑」を含む「金九」の記事については、「金九」の概要を参照ください。
- 金立殺害と風評に関する疑惑のページへのリンク