都賀庭鐘『英草子』『繁野話』からの影響
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秋成が処女作の浮世草子『諸道聴耳世間猿』を刊行した明和3年、都賀庭鐘の『繁野話』が世に出た。この作品とその前作の『英草子』は読本の祖というべきもので、それまで流行していた浮世草子とは違って、原典(白話小説)のはっきりとわかる、中国趣味を前面に出したものだった。当時は井原西鶴から始まった浮世草子の新鮮味がなくなり、落ち込みが出てきたころである。秋成はまだ執筆、刊行予定のあった浮世草子を捨て、庭鐘の作品を受けて『雨月物語』を書き始めたのだった。 『雨月物語』執筆の時期は上記のようにはっきりしないが、その前後に秋成は庭鐘から医学を学んでおり、その後は医者として生きて行くこととなる。このとき、どれだけ庭鐘から医学以外のこと(例えば白話小説のことなど)を直接学んだかはよくわかっていないが、その影響を受けていることは『雨月物語』自体が証拠となろう。 具体的にいえば、まず体裁が5巻9篇、見開きの挿絵1枚の短篇が8篇、挿絵1枚の中篇(「蛇性の婬」)が1篇であるところは、まったく庭鐘の読本作品と同じである。体裁で違うところといえば題名の付け方で、庭鐘が『英草子』第一篇「後醍醐帝三たび藤房の諫を折くこと話」、あるいは『繁野話』第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」のように長く付けるのに対し、『雨月物語』の方は第一篇「白峯」や第二篇「菊花の約」のようにすっきりとした題が付いている。内容面でいうと、読本の形式をとり、場面場面ではなく話の運びや登場人物の人間性に重点を置いたものにしたこと、知識層を読者に想定し、思想や歴史観、作中での議論を盛り込んだことなどが挙げられる。
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