逮捕・釈放と絶頂期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 08:13 UTC 版)
「テロワーニュ・ド・メリクール」の記事における「逮捕・釈放と絶頂期」の解説
1791年、テロワーニュはベルギーに帰省していた。王党派の攻撃を逃れるためと、革命家達への援助で資産が尽きかけていたためである。この時、彼女はオーストリアの官憲により身柄を拘束され、政治犯としてオーストリアのクフシュタインに送られた。罪状は「フランス王妃 (ハプスブルク家出身のマリー・アントワネット) に対する陰謀に参加した」こととされた。ベルギーに亡命していたフランスの王党派貴族の密告によるものという。現在残る彼女の『手記』は、この獄中で書かれたものである。フランスで強い影響力を持つ (とハプスブルク家が過大評価した) 彼女はやがてウィーンに送られ、神聖ローマ皇帝レオポルト2世自らも尋問したが、実際のところ彼女は大した情報を持っておらず、9か月の後に釈放された。 この逮捕は、かえって革命家としての彼女の経歴に箔をつけるものとなった。1792年、パリに帰還した彼女は、旧勢力の抑圧から脱出してきた受難者としてジャコバン・クラブで大歓迎を受け、「自由のアマゾンヌ」と称えられた。この頃が彼女の絶頂期で、様々な集会場に招かれて監禁の経験を語った。またパリ市内に婦人クラブを結成して下町の女性を集め、女性も武器を取り部隊を編成して革命に参加すべきと訴えた。8月10日事件の際は、例の男装でテュイルリー宮殿に向かう民衆の旗印となった。
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