述筆法堂清談会
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清の楊守敬の来日は日本の書道界に大きな衝撃を与えたが、それより3、4年前から、雪柯は清の段玉裁の「述筆法」を研究していた。そして明治13年(1880年)に『段氏述筆法』を完成し、自費出版(80部)しているが、この『段氏述筆法』の題字(山陰遺法)は三条梨堂、叙文は日下部鳴鶴、跋文は巌谷一六の執筆によるものであった。 『段氏述筆法』完成の1年前から毎週月曜日に「述筆法堂清談会」を主宰した。書法の研究をはじめとし、詩書画の鑑識の指導などを目的とする研究会であった。雪柯によって記されたその参会の記録「述筆法堂人名簿」1冊と「述筆法堂清談会条規」の原本が残っており、その条規には次のように定められている。 1. 本会ハ同好相会シ翰墨ニ遊戯スル可トス1. 毎会社員ノ相聚ル若クハ書若クハ画詩ヤ文ヤ其近作ニ係ル者ヲ斎帯シ以テ社中ノ品評ヲ受ヘシ1. 法書名画珎書奇冊ノ旧蔵新獲ヲ問ハス有ラバ輙チ之ヲ本会ニ携持シ社中ノ聞見ヲ資クヘシ1. 本会ハ松田雪柯ヲ推テ盟主トシ毎月曜日其堂ニ会シ臨書読画各自ノ適宜ニ任シ是正ヲ盟主ニ取ルヘシ 質疑問題アレバ盟長ニ就テ其説ヲ聴ヘシ 雪柯を会長として、毎回、一六・鳴鶴などが名簿に記名されているので、雪柯に指導を仰いでいたことがわかる。
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