踏海の企跡
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1854年(嘉永7年)、日米和親条約締結のため、ペリー提督が2度めの来日を果たし、下田港に入った。幕末の志士吉田松陰は、黒船に密航して渡米しようと企て、金子重之輔を伴って下田へやってきた。 彼らは弁天島の祠に隠れて夜を待ち、暗くなると小舟で黒船へ接近を試みた。しかし1度目は天候が悪く、諦めた。2度めの挑戦となった3月27日の深夜、ペリーのポーハタン号に接触することに成功した。しかしペリーは江戸幕府との外交交渉に差し障ると考え、松蔭らには面会もせず追い返し、部下に命じて艦隊のボートで送り返させた。 松蔭らは乗ってきた小舟に荷物を置いたままにしていて、それが流されて下田の柿崎村に漂着した。こと此処に及び、密航失敗が露見するのも時間の問題と考えた松蔭は柿崎村の名主のもとに出頭し、番所へ連行された。その後、吉田松蔭と金子重之輔は江戸で投獄され、国許蟄居を命じられて長州へ護送された。 下田市ではこの故事から弁天島を「吉田松陰 踏海の企跡」として史跡に指定している(指定年月日:1976年(昭和51年)5月27日)。弁天島には吉田松陰と金子重之輔が身を潜めたという社が現存し、石碑が建てられている。弁天島公園には「踏海の像」が設置されている。
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