踏海の企跡とは? わかりやすく解説

踏海の企跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/28 08:44 UTC 版)

弁天島 (下田市)」の記事における「踏海の企跡」の解説

1854年嘉永7年)、日米和親条約締結のため、ペリー提督2度めの来日果たし下田港入った幕末の志士吉田松陰は、黒船密航して渡米しようと企て金子重之輔伴って下田へやってきた。 彼らは弁天島の祠に隠れて夜を待ち暗くなる小舟黒船接近試みた。しかし1度目天候悪く諦めた2度めの挑戦となった3月27日深夜ペリーポーハタン号接触することに成功した。しかしペリー江戸幕府との外交交渉差し障る考え蔭らには面会もせず追い返し部下命じて艦隊ボート送り返させた。 蔭らは乗ってきた小舟荷物置いたままにしていて、それが流されて下田柿崎村漂着した。こと此処に及び、密航失敗露見するのも時間の問題考えた蔭は柿崎村名主のもとに出頭し番所連行された。その後吉田松蔭と金子重之輔は江戸で投獄され国許蟄居命じられ長州護送された。 下田市ではこの故事から弁天島を「吉田松陰 踏海の企跡」として史跡指定している(指定年月日1976年昭和51年5月27日)。弁天島には吉田松陰と金子重之輔が身を潜めたという社が現存し石碑建てられている。弁天島公園には「踏海の像」が設置されている。

※この「踏海の企跡」の解説は、「弁天島 (下田市)」の解説の一部です。
「踏海の企跡」を含む「弁天島 (下田市)」の記事については、「弁天島 (下田市)」の概要を参照ください。

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