足利・新田方の激突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:42 UTC 版)
楠木正成の戦死後、尊氏と直義は合流し、新田義貞の攻撃へ向かった。義貞は西宮に逃がれていたが、ここに来ている軍勢は相手にすべき敵ではなく、湊川から襲来する軍勢、つまり尊氏、直義こそが本来の敵であると感じ、西宮から軍勢を返した。そして、義貞は4万余騎の軍勢を三方に分け、生田の森を背にして足利軍と激しく激突した。 まず、新田方の大館氏明、江田行義らが率いる3千余騎が細川氏、仁木氏の6万余騎に襲い掛かった。互いに多数が討ち取られて双方が引くと、新田方の中院定平、大江田氏経、里見氏、鳥山氏が5千余騎で高氏、上杉氏の8万騎に襲い掛かり、一時間ほど戦った。それらの軍勢も疲弊して自陣に退くと、今度は新田方の脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武重、河野氏、土居通増、得能通綱の1万騎が、直義、吉良氏、石堂氏ら10万騎に攻めかかった。そして、義貞自身も左右に2万3千騎を左右に立て、尊氏の軍勢30万騎に攻めかかった。 双方の軍勢は互いに譲らず、この激しいぶつかり合いで大勢の兵士が戦死した。合戦は『太平記』で、「天を響かし地を動して攻め戦ふ」「両虎二龍の戦い」「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」と記されるほどの激しさに及んだ。合戦の規模からすると、新田と足利の合戦が湊川の合戦の本戦と呼べる。
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