赤軍本部襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
計画は、およそ以下のようなものであったのではないか、と推測されている。陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。海軍部隊は、半分が赤軍本部の襲撃に参加し、半分は領事館の警備に残った。 日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。市街戦は、ほぼ2日間続いた。島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、三等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた。水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。 同日、負傷兵3名がスヤマ歯科医のもとに身を寄せたが、パルチザンは大家のアヴシャロモフ一家を追い出すと家に火を付け爆弾を投げ込んだ。外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ、夫人は焼死した。
※この「赤軍本部襲撃」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「赤軍本部襲撃」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- 赤軍本部襲撃のページへのリンク