赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧
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「楠木正成」の記事における「赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧」の解説
元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した。 楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した。京には和泉・河内の両国から早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込む可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。このため、六波羅探題は隅田・高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した。 5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした。だがこれは正成の策略で、前日に主力軍は住吉、天王寺付近に隠して 2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った。
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