財政再建と「大契約」の挫折
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「ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)」の記事における「財政再建と「大契約」の挫折」の解説
1608年からは大蔵卿(英語版)を兼務し、王庫を預かるようになった。当時の財政はジェームズ1世の浪費もあって慢性的な破たん状態にあったため、ソールズベリー伯はまず既存の財政基盤の増収を図った。王領に広範囲の調査を行い、王領の借地料収入を3倍以上にした。また各方面の強い反発を押し切って関税の輸入品目を増やした。こうした努力が実って1608年時点で100万ポンドあった負債は1610年までに28万ポンドに減少した。しかし既存の財政基盤の増収だけではこれが限界であり、28万ポンドの負債と将来発生する年5万ポンドの恒常的赤字を埋めるのは困難であった。 そこでソールズベリー伯は1610年2月に召集された議会において「大契約」と呼ばれる財政提案を行った。これは議会が60万ポンドの一時金と毎年20万ポンドの税収の許可を出す事を条件に国王の徴発権など封建的税制を廃止するという内容だった。封建制の名残である国王大権に頼ることなく、国民への恒常的課税制度を財政の中心にしようという近代的・革新的政策であった。「大契約」提出時の庶民院は一時金の金額を20万ポンドに減額すれば応じるかのような譲歩の姿勢を見せていたが、一度庶民院が閉会され、1610年11月に再開された際の庶民院の反応は冷たく、20万ポンドに減額された一時金案さえも否決した。閉会中、庶民院議員たちはそれぞれの地元に帰省していたが、そこで選挙区民から政府に譲歩しないよう改めて釘を刺されていたためだった。 この失敗により国王の信任は失われていったが、国王は内政外交を知り尽くした政治家としてソールズベリー伯を手放すことは最後までなかった。
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