讃歌としてのパイアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 08:17 UTC 版)
讃歌としては元々はアポローンに呼びかけるアポローン讃歌だったのが、後には、ディオニューソス、ヘーリオス、アスクレーピオスという他の神々にも向けられるようになった。4世紀頃には、パイアンは単に賞賛の決まり文句になってしまった。その目的は、病気や不運から保護してほしいという懇願か、それを叶えてもらえた感謝の御礼のどちらかだった。ピュトンの殺害者としてのアポローンの連想から、やがてパイアンは戦いと勝利の歌にも使われるようになった。行進の時、戦いに入る前、艦隊が港を離れる時、さらに勝利を手にした後、軍隊によってパイアンが歌われるようになった。 最も有名なパイアンは、バッキュリデースとピンダロスのものである。パイアンはアポローンの祭(特にヒュアキンティア祭)で、祝宴で、後には公的な葬儀で歌われた。もっと後の時代になると、神々だけでなく人間をも讃美するようになった。ロドス島の人々は古代エジプトのプトレマイオス1世を、サモス島の人々はスパルタの将軍リュサンドロスを、アテナイ人はデメトリオス1世を、デルポイ人はマケドニア王国の将軍クラテロスを、パイアンで讃美した。 音楽的には、パイアンは合唱形式の頌歌(オード)で、元々はアンティフォナのような性格を持っていて、その中でリード歌手はモノディのスタイルで歌い、合唱が単一で型にはまらないフレーズで応唱していた。しかし、後にはそれが発展し、パイアンは完全な合唱形式になった。典型的なパイアンはドリア旋法で、アポローンの楽器であったキタラーの伴奏がついた。また戦場で歌われるパイアンにはアウロスとキタラーの伴奏がついていた。 古代後期のパイアンは、断片が2つ現存している。1つはアテナイのリメニウス(Limenius)の作で、もう1つは作者不詳である。リメニウスのものは紀元前128年に作られた。
※この「讃歌としてのパイアン」の解説は、「ピーアン」の解説の一部です。
「讃歌としてのパイアン」を含む「ピーアン」の記事については、「ピーアン」の概要を参照ください。
- 讃歌としてのパイアンのページへのリンク