讃岐配流とは? わかりやすく解説

讃岐配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 12:57 UTC 版)

崇徳天皇」の記事における「讃岐配流」の解説

崇徳院源為義平家弘らに擁されて東山如意山に一旦逃れるが、投降決意して剃髪し武士らと別れる『保元物語』)。13日崇徳院仁和寺出頭し同母弟の覚性法親王取り成し依頼する。しかし覚性申し出断ったため、崇徳院寛遍法務の旧房に移り源重成監視下に置かれた。崇徳院剃髪して投降した背景には、薬子の変挙兵失敗して出家した平城上皇が、実権失いはしたが自ら選んだ隠棲地の平城京手厚い待遇受けて余生送った先例があったとされる。しかし、薬子の変時代異なり保元の乱時代には上皇在家出家問わず院政を行う慣例確立していたため、出家権力放棄保証にならなかった。また、万一守仁親王じた場合中継ぎとして即位した後白河天皇脆弱な立場根底崩れ家長として崇徳院院政を行う可能性排除できなかった。 23日崇徳院武士数十人が囲んだ網代車乗せられ鳥羽から船で讃岐国下った天皇もしくは上皇配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃兵衛佐局僅かな女房けだったその後二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年1164年8月26日46歳崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されともされ、その地に柳田大正10年1月府中村建立地図)として石碑立っている。

※この「讃岐配流」の解説は、「崇徳天皇」の解説の一部です。
「讃岐配流」を含む「崇徳天皇」の記事については、「崇徳天皇」の概要を参照ください。

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