設立と赤字経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:12 UTC 版)
西南戦争で石炭価格が暴騰した時に、浅野総一郎は磐城を調査して豊かな鉱脈を発見した。そして浅野総一郎(浅野財閥)10500円、渋沢栄一(渋沢財閥)6000円、大倉喜八郎(大倉財閥)・渡辺治右衛門・須藤時一郎・沼間守一・佐々木荘助3000円ずつ、その他数人が出資し、合計四万円を資本金にして1883年(明治16年)に磐城炭鉱会社を設立し浅野が経営に当った。1884年(明治17年)2月に採掘を開始したが、浅野は250万坪という驚くほど広大な鉱区を申請した。炭鉱から海岸へ石炭を牛馬で運び、帆船に積み替えて東京へ運んだので、輸送費が高すぎて利益が出ずに毎期欠損が続いた。それで1887年(明治20年)5月に、小野田炭山から小名浜(小野浜)まで約3キロの距離に軽便鉄道(馬車鉄道)を敷いて、輸送費をある程度軽減したが、根本的な解決にはならなかった。七年間ずっと無配当が続いたので出資者が次々に去っていき、浅野と渋沢ともう一人の三人だけが残った。
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