藺牟田村の成立から町村制施行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:04 UTC 版)
「鹿島町藺牟田」の記事における「藺牟田村の成立から町村制施行まで」の解説
藺牟田という地名自体は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。寛文4年(1664年)の「郡村高辻帳」では下甑島のうちと記載されており、元禄年間に作成された「元禄国絵図」では下甑村のうちの「伊牟田村」として記載されている。藺牟田村の村高は、延享年間の「三州御治世要覧」によると53石余、明治初期の「旧高旧領取調帳」によると57石余であった。江戸時代の測量家であり、日本全国を測量し地図を作製した伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によれば家数は267戸であったと記録されている。慶長16年(1611年)には甑島郷地頭の管轄下に置かれた。藺牟田には船舶の往来を監視する番所が設置されており、手打の郷士が勤務していた。 藺牟田池には藺草が多く生え、刈り取られた藺草は島外へ出荷されていた。 寛文4年(1664年)には村内にのちの鹿島村の村名の由来となる鹿島神社が創建されたとされているが、境内にある石灯篭には元和8年(1622年)に寄進されたとの表記があることからそれ以前には創建されていたという説もある。
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