藩領の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
越後長岡藩領は堀直寄による立藩以来、古志郡の長岡城下町周辺から下流に向けて信濃川に沿って広がり、信濃川河口の港町新潟も藩領の一部であった。この地域は信濃川とその支流がおりなす低湿地が広がり、中世まで開発が遅れていたため、長岡藩は藩の創建当初から治水事業、新田開発に力を注いだ。寛永11年(1634年)には藩主忠成が次男と四男にそれぞれ1万石と6千石を分与したが、いずれも分与は新墾田分から出された。加えて新田に対しては3年間の免税も行われた。新田開発等によっても藩の表高は変わらなかったが、年貢実収では正徳5年(1715年)から安永元年(1772年)までの年平均でみると11万8千石余と表高を遙かに超えていた。しかし、その後は天候不順などにより年貢収納率が低下し、年貢実収は11万石を下回るようになった。
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