藺牟田の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:36 UTC 版)
「祁答院町藺牟田」の記事における「藺牟田の成立と中世」の解説
藺牟田という地名は室町期より見え、薩摩国祁答院のうちであった。室町期の応永7年(1400年)頃はに渋谷祁答院氏7代重茂の次男重基が藺牟田郷の領主となり、藺牟田氏を称したとされている。 室町期に島津氏と渋谷氏は激しく抗争しており、島津忠昌によって遣わされた帖佐領主の島津忠廉が攻め、藺牟田城が落城しその後藺牟田氏が断絶した。その後は公領となった。
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