藤嶺学園とグリーンハウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:31 UTC 版)
「グリーンハウス (藤沢市)」の記事における「藤嶺学園とグリーンハウス」の解説
学校法人藤嶺学園は時宗総本山の遊行寺が創設した学校法人であり、終戦時には藤沢中学校、藤沢工業学校の2校が所属していた。終戦後、学徒勤労動員から藤沢中学校、藤沢工業学校の生徒たちは、遊行寺に隣接する戦災を免れた学校に戻ってきた。そこに空襲で校舎を失ってしまった相模商業女子学校が藤嶺学園に経営移管を求めてきた。結局、相模女子商業学校は藤嶺学園が経営することとなり、1945年(昭和20年)9月の授業再開時には生徒たちが藤沢中学校、藤沢工業学校の校舎に移ってきた。ところで藤沢工業学校は商業学校であったものが、戦時中に当局の要請もあって工業学校への転換を余儀なくされた経過があった。そのため終戦後商業学校に復帰すべきとの声が挙がり、12月には文部省から商業学校の復活が認められた。しかし生徒たちは工業学校転換後は工業系の授業を受けていたわけで、とりあえず商業学校と工業学校を併設する形を取らざるを得なかった。1946年(昭和21年)4月、藤沢商業学校が復活し、結局遊行寺隣の藤嶺学園の校舎には、藤沢中学校、藤沢商業学校、藤沢工業学校、相模商業女子学校の4校が同居する状況に陥った。 終戦時、遊行寺隣の藤嶺学園校舎の収容能力は1,500名あまりであった。しかし学徒勤労動員から戻った藤沢中学校、藤沢工業学校の生徒は合計約1,700名であった。そこに相模女子商業学校の生徒たちがやってきて、2,000名を超える生徒となってしまったのだからたまらない。藤嶺学園側は職員室を教室に充て、職員室はとりあえず体育館に移した。そして戦時中に海軍が遊行寺境内に建てていたバラックも利用してなんとか急場をしのいだものの、前述のように1946年(昭和21年)春には商業学校が復活したため、超満員の校舎に4校が併設状況となったわけで混乱に拍車がかかった。このような状況下で藤嶺学園は抜本的な打開策として藤沢航空隊跡地の利用を熱望するようになった。
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