著名な人々との交友
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「ベッティーナ・フォン・アルニム」の記事における「著名な人々との交友」の解説
ベッティーナは政治や文化の分野における数多くの著名人とも交友があった。フランクフルト時代にはすでに、カロリーネ・フォン・ギュンデローデと親交を結んでいた。 1806年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの母カタリーナ・エリザベート・ゲーテと長きに渡る親交が始まっている。その1年後に彼女はヴァイマルで、彼女が神のように崇めていたゲーテ本人を訪問し、そこから2人の間で後に有名なものとなる書簡の往来が始まる。 1810年まで彼女は南ドイツのあちこちを移動し、ここでもルートヴィヒ・ティークやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのような芸術家たちや学者たちと知り合いになった。 1836年、後にゴットフリート・キンケルの妻となるヨハンナ・マチューがベルリンの彼女の元に同居し、2人は非常に親密な関係にあった。ヨハンナは子どもたちにピアノを教え、多声歌曲を2人で一緒に研究していた。 ベルリンの文学的なサロンのひとつで、彼女はラーヘル・ローベルト(後のラーヘル・ファルンハーゲン)に出会っている。 夫が亡くなった後、彼女は盛んにフリードリヒ・シュライアマハーやヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウと行き来する。彼女はフェリックス・メンデルスゾーン、若きヨハネス・ブラームスやロベルト・シューマンとも出会っている。シューマンは、事実上最後の作品の一つである『暁の歌』を彼女に献呈している。 1837年の事件以来、社会的に追放状態になっていたヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムの兄弟も、1840年に彼女の影響力によってベルリン大学に招聘された。 兄クレメンス・ブレンターノが一時住んでいたことのあるフランクフルト=レーデルハイムのいわゆる「ペトリハウス」で、彼女は数多くの作家、著述家と知り合いになった。その中には、グリム兄弟のほか、アデーレ・ショーペンハウアー、マリアンネ・フォン・ヴィレマーなどがいる。ゲーテも何度かここに泊まっている。
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