葉室塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 20:54 UTC 版)
葉室塚古墳(はむろづかこふん)または越前塚古墳(こしまえづかこふん、位置)は、長方形墳(長方墳)または双方墳(方墳2基の連接)とされるが、いずれかは詳らかでない。墳丘は2段築成で東西方向を長辺とし、東西75メートル、南北55メートル、高さ8メートル余を測るが、特に西半部で大きく破壊を受けている。墳丘周囲の一部には周濠が認められる。主体部の埋葬施設は明らかでないが、西半部・東半部それぞれに南方に開口する横穴式石室が存在したと推測される。築造時期は7世紀前半頃と推定される。 磯長谷では、長方形墳または双方墳の形式として山田高塚古墳(太子町山田、推古天皇・竹田皇子合葬陵墓)や二子塚古墳(太子町山田)が知られ、墳丘比率の点でも共通性が指摘される。また本古墳の墳丘規模は当時としては用明天皇陵(太子町春日の春日向山古墳)や推古天皇合葬陵墓に匹敵する天皇陵クラスになるため、特に敏達天皇・石姫皇女合葬陵の真陵とする説もある(現合葬陵である太子町太子の太子西山古墳は埴輪の存在により比定に疑問を抱える)。しかし、本古墳付近で古墳が密集する点では他の天皇陵と様相が異なるため、他に天皇に匹敵する豪族(特に蘇我氏)の墓とする説も挙げられており、被葬者は未だ詳らかでない。
※この「葉室塚古墳」の解説は、「葉室古墳群」の解説の一部です。
「葉室塚古墳」を含む「葉室古墳群」の記事については、「葉室古墳群」の概要を参照ください。
- 葉室塚古墳のページへのリンク