落葉松の芽吹きの昨日さらに明日
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
春 |
出 典 |
「俳句」2010.7 |
前 書 |
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評 言 |
北原白秋の詩「落葉松」の一節、「からまつの林の奥も わが通る道はありけり 霧雨のかかる道なり 山風のかよふ道なり」の寂寥感に酔いながらも、作者はまったく逆の光明を見ている。昼なお暗い落葉松林の奥深くにもようやく春が来ている。芽吹きが始まれば、青葉、若葉へと時間は一気に加速する。自然界のエネルギーは一旦火が点けば休むということを知らない。昨日より今日、今日よりは明日へと春は進行する。こうして森全体が万緑を着る日も近いだろう。本句、この毎年繰り返される自然界の時間的ストーリーを大局的に身の内にしっかりと消化してみせた。 「俳句」2010年7月号より採った。つまり西村和子氏の近詠中の近詠である。同号と、「知音」9月号発表のつぎの京都吟も安心して詠める。 風孕み葵祭の袖袂 刀かざせば鉾稚児に神宿る じつはこの作者には過去に、多くの時間をかけて「京都在の高濱虚子」のみを追いかけた一時期があった(『虚子の京都』)。京都の虚子を追ううちに虚子一生の日常細部を知りたくなったのだろう。俳句人生の「始まりと流れと完結」を…。そうした虚子の全詩脈のなかの京都に焦点を絞ったことに価値があったと思う。 ともあれ大虚子の「生涯即俳句」から感得したものは大きかった。自身の俳句を一本の棒に見立てて、《昨日・現在・明日》を眺望しての詠みも知った。俳句は既視化の可能な過去よりも自己内外の揺れ動く現在を詠むことの方が難しいし、さらに明日以降の未来の読み方は輪をかけて難しい。だから、明日の詠みへの期待は「近詠」を読むに限る。落葉松の「芽吹きの昨日」から「さらに明日」を予測するためにも…。 |
評 者 |
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備 考 |
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