華夷変態と小中華思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
李朝は16世紀末に南方の日本から攻撃され、17世紀には北方の清から攻撃を受ける結果となった。中国で成立した清は、日本と朝鮮双方の外交方針に変化をもたらした。遼東地域の女真が勢力を拡大して清となり、明が滅亡すると、日本では華夷変態と呼ばれた。中華の明が夷狄の清に変わったという意味であり、夷狄でも中華となり得るという概念が生まれた。李朝は清と宗属関係を結び、日本とは交隣関係を結んだ。李朝は清の藩属国となりつつも、朱子学のもとで清に対する批判も起きる。漢王朝の明の滅亡によって、中華の継承者は自国にあるという尊華攘夷・尊明排清の思想が主張されるようになり、これを小中華思想とも呼ぶ。 幕府と李朝の外交では、名称が問題となった。幕府の将軍は「日本国大君」を用いており、大君という称号は日本では諸侯の長を意味して国王と対等以上を意味したが、李朝では臣子に与える職号であり国王の下位にあった。両国は互いに都合のよい解釈をしており、交渉の窓口は対馬藩が担当していたので深刻な対立とはならなかった。この問題は、幕府が倒れて明治政府となった時に表面化する(後述)。
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