菅浦絵図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:09 UTC 版)
乾元元年(1302年)と記される「菅浦与大浦下庄堺絵図」(すがうら と おおうらしものしょう さかいえず、菅浦文書722号)は、縦91.5センチメートル、横62.3センチメートルで、日指・諸河の田地による大浦との所有権争いにより作成され、菅浦が主張する大浦下庄との村落の境が朱色の線で示されている。中世の大浦「上庄」は西浅井町の庄・中・山門、「下庄」は大浦・黒山・小山・山田・八田部あたりであった。絵図上部には西側に峯堂が描かれた海津大崎から東側の羅尾嵜(葛籠尾崎)にかけての陸地部分が描かれ、中央下部には竹生島の景観が明確に描かれており、絵図中央に広がる水域は菅浦の漁業および航行領域にあたると考えられる。 中世の菅浦を描いた鎌倉時代後期から南北朝時代の荘園絵図とされ、裏書に乾元元年(1302年)8月17日の墨書があり、「菅浦訴状具書案」(菅浦文書637号)の起業弘注進状に記された日付と符合する。しかし、乾元元年は11月21日より始まることからこの年月日は認められず、後に作成されたものと考えられる。その制作時期については諸説あり、嘉元3年(1305年)12月-延慶2年(1309年)7月、建武元年(1334年)、建武3年(1336年)から暦応年間(1338-1342年)ないし康永年間(1342-1344年)・貞和年間(1345-1349年)の1340年代のうちに作成されたといわれるほか、現存する絵図は、文安3年(1446年)の争論の際に提出された「檀那院雑掌良兼菅浦証文目録」(菅浦文書280号)にある「堺絵図」として、文安になり作成されたともいわれる。
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