菅沼氏の帰依
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 15:23 UTC 版)
天文8年(1539年)、野田城主初代菅沼定則の助成をうけ、開山以来長い年月で傷の激しくなった伽藍を改築。 菅沼定則は、天文10年(1541年)に10世泰年全継住職に帰依し不春居士号を授けられた。 定則は翌年、大洞山へ梵鐘を寄進。天文13年(1544年)の11世再々住職光国舜玉代に、定則は野田城主二代菅沼定村に家督を譲ると、大洞山大門前に「不春禅学敲門道場」を建立し住した。 天文15年(1546年)定則が病に臥せると光国舜玉は願いを聞き入れ当院に止錫。翌春2月14日に定則が逝去すると 10世泰年全継 11世光国舜玉 12世海岩俊智 の3導師により「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、当院に葬られた。 野田城主2代目菅沼定村が大洞村を新設して全域を院領としたことにより以来、山号を「大洞山」と改めた。 のちの元亀4年(1573年)、武田信玄が再び来攻した野田城の戦いで伽藍焼失。 野田城主3代目菅沼定盈は大檀那となり院を修復。その際定盈は本尊釈迦牟尼仏を寄進して戦死した父菅沼定村の追福とした。
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