苻双苻武らの反乱鎮圧とは? わかりやすく解説

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苻双・苻武らの反乱鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「苻双・苻武らの反乱鎮圧」の解説

367年10月蒲坂を守る晋公苻柳上邽を守る趙公苻双・陝城を守る魏公苻廋安定を守る燕公苻武は一斉に兵を挙げ苻堅反旗を翻し長安攻略目論んだ368年1月苻堅後将軍楊成世・左将軍毛嵩を上邽安定侵攻させたが、3月に楊成世は苻双配下の苟興に敗れ、毛嵩もまた苻武に敗れて逃げ戻って来た。 同月苻堅の命により、呂光武衛将軍王鑒・将軍郭将・翟傉らと共に3率いて苻双・苻武の討伐向かい、左衛将軍苻雅・左禁将軍竇衝羽林騎兵7千を率いて後続した。4月、苻双・苻武は楊成世らを破った余勢駆り、苟興を軍の前鋒として隃麋(現在の陝西省宝鶏市千陽県)まで進出した。王鑒は速戦に持ち込もう考えていたが、呂光は「興(苟興)は成世(楊成世)を破った事で、その気勢次第鋭くなっている。ここは持重し、敵の疲弊を待つべきであろう。興は勝ちに乗じて軽々しく軍を進めているが、兵糧尽きれば必ずや後退するその時にこれを討てば、破る事が出来よう」と答え持久戦選択した20日余りして苟興軍が後退すると、諸将はどう動くべきか悩んでいたが、呂光は「奴ら奸計推し量るに、まず隃麋を攻め、これを得れば城に拠って進路遮断し、資儲(食糧物資)を充足させる考えであったのだろう。これは国の利ではなく、もし興が城を攻めようものなら、速かに軍を進めて救援赴くべきであった。だが、こうして奔走しているのであれば、奴の兵糧は既に尽きているという事だ。これを滅ぼすのは容易い」と述べると、王鑒もまたこの考え同意した。こうして呂光らは追撃掛けて苟興軍を攻撃し、これを撃破したさらには苻双・苻武の本隊もまた大破し1万5千余り討ち取る捕虜とした。苻武は安定放棄し、苻双と共に上邽退却すると、呂光らはさらに上邽進撃した7月呂光らは上邽陥落させ、苻双・苻武を捕らえた9月、輔国将軍王猛・建節将軍鄧羌率い別動隊蒲坂攻略し苻柳捕らえた呂光らは前将軍楊安広武将軍張蚝・建節将軍鄧羌合流すると、共に苻廋の守る陝城へ侵攻した12月、陝城を攻略し苻廋捕らえて長安送った

※この「苻双・苻武らの反乱鎮圧」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「苻双・苻武らの反乱鎮圧」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

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