苻双・苻武らの反乱鎮圧
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367年10月、蒲坂を守る晋公苻柳・上邽を守る趙公苻双・陝城を守る魏公苻廋・安定を守る燕公苻武は一斉に兵を挙げ、苻堅に反旗を翻して長安攻略を目論んだ。368年1月、苻堅は後将軍楊成世・左将軍毛嵩を上邽・安定へ侵攻させたが、3月に楊成世は苻双配下の苟興に敗れ、毛嵩もまた苻武に敗れて逃げ戻って来た。 同月、苻堅の命により、呂光は武衛将軍王鑒・将軍郭将・翟傉らと共に3万を率いて苻双・苻武の討伐に向かい、左衛将軍苻雅・左禁将軍竇衝が羽林騎兵7千を率いて後続した。4月、苻双・苻武は楊成世らを破った余勢を駆り、苟興を軍の前鋒として隃麋(現在の陝西省宝鶏市千陽県)まで進出した。王鑒は速戦に持ち込もうと考えていたが、呂光は「興(苟興)は成世(楊成世)を破った事で、その気勢は次第に鋭くなっている。ここは持重し、敵の疲弊を待つべきであろう。興は勝ちに乗じて軽々しく軍を進めているが、兵糧が尽きれば必ずや後退する。その時にこれを討てば、破る事が出来よう」と答え、持久戦を選択した。20日余りして苟興軍が後退すると、諸将はどう動くべきか悩んでいたが、呂光は「奴らの奸計を推し量るに、まず隃麋を攻め、これを得れば城に拠って進路を遮断し、資儲(食糧・物資)を充足させる考えであったのだろう。これは国の利ではなく、もし興が城を攻めようものなら、速かに軍を進めて救援に赴くべきであった。だが、こうして奔走しているのであれば、奴の兵糧は既に尽きているという事だ。これを滅ぼすのは容易い」と述べると、王鑒もまたこの考えに同意した。こうして呂光らは追撃を掛けて苟興軍を攻撃し、これを撃破した。さらには苻双・苻武の本隊もまた大破し、1万5千余りを討ち取るか捕虜とした。苻武は安定を放棄し、苻双と共に上邽へ退却すると、呂光らはさらに上邽へ進撃した。 7月、呂光らは上邽を陥落させ、苻双・苻武を捕らえた。9月、輔国将軍王猛・建節将軍鄧羌率いる別動隊が蒲坂を攻略し、苻柳を捕らえた。呂光らは前将軍楊安・広武将軍張蚝・建節将軍鄧羌と合流すると、共に苻廋の守る陝城へ侵攻した。12月、陝城を攻略し、苻廋を捕らえて長安へ送った。
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