腹心の千種忠顕になりきる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「腹心の千種忠顕になりきる」の解説
隠岐国を脱出し、船上山に籠城した後醍醐天皇は、籠城に功績のあった在地の武士巨勢宗国に対し、側近の千種忠顕を「綸旨(命令文)の奉者」(天皇の意を受けて文書を発給する係)として、感状を与えた。ところが、このとき忠顕は軍事行動に就いており、船上山にはいないので、彼に綸旨を書いて貰うのは物理的に不可能である。実は、この綸旨を書いたのは後醍醐天皇自身で、奉者となる資格を持つ臣下が側にいなかったため、部下の忠顕になりきり、忠顕の花押(サイン)を真似してまで、天皇が自分で自分の綸旨の奉者を装った、という前例の無い事件である。さて、世間によくある、「破天荒な後醍醐天皇」と言う通俗的な人物像からは、これもその破天荒さの一貫と考えがちである。しかし、本郷和人によれば、この文書はむしろ後醍醐天皇の保守的・形式主義的な一面を表しているのではないか、という。もし後醍醐天皇が過激な改革者であったとすれば、蔵人(秘書官)・弁官(庶務官)ではない臣下を奉者とするか、あるいは綸旨に代わる新しい文書形式を作っても良かったはずである。そうしなかったのは、創作上ではない歴史的人物としての後醍醐天皇は、従来の手続きを忠実に踏襲する人間であることを示しているのではないか、という。
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