肥田忠政とは? わかりやすく解説

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肥田忠政

(肥田軌休 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 23:21 UTC 版)

 
肥田忠政
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 玄蕃、直勝、軌休
戒名 一枢機公禅定門[1]
墓所 龍洞寺(岐阜県加茂郡川辺町比久見)[1]
官位 玄蕃允
主君 織田信長
氏族 肥田氏
父母 父:肥田忠直
金森長近
長寿丸、忠親
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肥田 忠政(ひだ ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。美濃国米田城主。

略歴

先祖は信濃国諏訪氏の末孫で源義仲に仕えていたが、肥田忠直の代に美濃肥田村(現岐阜県土岐市肥田町)に移った後、同米田庄福島(現川辺町福島)に移住して肥田氏を名乗った、あるいは美濃源氏の家系で、土岐氏を経て肥田氏を名乗るようになったとされる。

肥田忠直(軌吉)の子として誕生。初め父が権現山に築いた福島城にいたが、永禄3年(1560年)に加茂山に移築して米田城を築いた[2]

永禄10年(1567年)8月、子・長寿丸が下川辺城(毛利山城、牛ヶ鼻城)の毛利勘右衛門を300の兵で討とうとした際、その家臣一同が信望のない主君を殺害して投降したため、長寿丸は戦わずして入城し、その地を治める事となったと言う。

また、元亀年間(1570年 -1573年)某年3月[注釈 1]

堂洞城主・岸信周と長寿丸は盟約を交わし、岸氏の飛び地だった加茂郡の馬串山城と毛利山城を対等交換したと言う[3][4]

永禄8年(1565年)8月、織田信長が美濃に侵攻すると、堂洞合戦後に旧領地の知行を認められており、いち早く信長に従ったと見られる[5]

長井道利は忠政と共に織田方に寝返った加治田城を奪取しようと、加治田から25町先の堂洞城の岸信周と共に出陣。自らは関城で後詰をした。

これに対し、8月28日、織田軍も堂洞城に攻撃を開始。佐藤忠能父子は織田軍側で堂洞城攻撃に加わり、6時間の攻防の末、堂洞城は陥落(堂洞合戦)。その日、信長は忠康の在所に宿泊し、忠能父子は感涙を流したという。

東からは、杉洞峠を越えて忠政が押し寄せて、佐藤忠能と川浦川辺りで戦闘となった。関軍が戦に負け引退くと、佐藤忠能が自ら真っ先に進みで、4、5度戦い、忠政勢を川浦川天然の堀にて追い返し、加治田城東北からも勝利した。(この合戦で南北山城軍記では、忠政が討死したと記載があるが影武者の可能性が高いと考えられる。)

信長公記』によれば、時期は不明ながら高野口(瑞浪市)に侵攻してきた武田信玄との戦いで、森可成と共に先駆けを務めている[6]

元亀元年(1570年)9月には、森可成や織田信治と共に宇佐山城を守備し、浅井・朝倉軍の攻撃を受けて可成・信治は戦死するが、忠政は武藤五郎衛門・肥田彦左衛門と共に城を死守した[7][6]

天正10年(1582年)春、金山城主の森長可から、忠政(玄蕃)の領地となっていた、馬串山に下屋敷を設けたいからとして譲渡を要望してきたが、忠政は自分も下屋敷を設けるために後程普請するつもりだと回答して拒否した。

このことで、森長可は激怒し、いづれ忠政(玄蕃)を討つつもりだと言ったことを知った。

同年6月2日、本能寺の変で織田信長と共に森成利ら長可の弟三人が討死すると、信濃国内も混乱した。

当時、北信濃海津城主となっていた森長可は、高井郡水内郡更級郡埴科郡の所領を放棄して美濃金山城へ撤退しようとした。

しかし、忠政(玄蕃)、木曾義昌遠山友忠(久兵衛)、平井頼母久々利頼興(土岐三河守)は、森長可の美濃への帰国を喜ばず、

忠政(玄蕃)は苗木城へ赴き、遠山友忠(久兵衛)に森長可を討つ計画を頼んだ。

遠山友忠(久兵衛)は、義昌と相談し、長可の帰路を捕らえ、木曽福島で暗殺することを計画し、もし不成功に終わったら恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。

海津城下で商売をしていた金山城下の道家彌三郎は、このことを知って、長可に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」と密告した。

そこで長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着予定日を書いた書状を義昌に送ると、わざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。

義昌は驚き、一礼して書院に下がり、息子の岩松丸(後の木曾義利)を給仕として茶を差し出した。

長可は茶を飲まず、養子にしたいと言って岩松丸の手を取って身柄を拘束したうえで出発した。

意表を突かれた義昌は、やむなく千旦林村に伏兵していた肥田忠政や遠山友忠等の長可をよく思っていなかった近隣の諸将に、岩松丸が人質として連行されたことと、既に暗殺計画は知られているので森軍に手出しをしないように懇願した。

遠山友忠は、ここまで準備していたのに撤兵するのは残念であると反対し、森長可を討つ計画を主張したが、肥田忠政や平井頼母に宥められて断念した。またここで義昌の恨みを受けるようになれば、後に問題が残るとして撤兵した[8]

森長可は、無事に千旦林村を通り過ぎて、大井村へ到着し、そこで人質として連れて来た岩松丸に、二人の士を付けて木曽福島城へ送り届けて、金山城へ帰った。

6月22日に長可は森成利らの弟三人の葬儀を行った後に出陣し、米田城を急襲した。

城内では男子誕生の慶事中で防戦の用意が無く、忠政は妻子を連れ逃れたが、駆けつけた長寿丸は銃撃を受け、両親に追いつくも息絶えた。

忠政は妻子を預け、加治田城主の斎藤利堯を頼り牛ヶ鼻付近で森軍と対戦したが敗れて、家臣の伊藤忠助・多田角右衛門が捕らわれた。

その後、この二人は長可の家臣となり、小牧・長久手の戦いで長可と共に討死した[9]

一方、忠政は『南北山城軍記』によれば大島光義に討たれたと言うが、実際にはこの時点で光義は斎藤側で長可と戦っている。[4]

あるいは、加治田城内で自刃したともされるが、岳父金森長近の姻戚である鉈尾山城佐藤秀方を頼り、その地で病死したのではないかという説もある[10]

寛永諸家系図伝』によれば、本能寺の変後と見られるが、羽柴秀吉に属したともいう[6]

忠政の子の忠親は幼少だったため、祖父の金森長近が養育し、元服後に徳川家康に謁見させた。

忠親は寄合に列し、家康から武儀郡内の極楽寺・生櫛・下有知で1,000石の所領を得て、子の忠頼以降も代々徳川将軍家に仕えた。

忠頼の弟の忠寅の家系は尾張徳川家に仕えた[10]

参考文献

  • 『川辺町史 通史編』 第八節 戦国時代と加茂地方 三 肥田玄蕃と森長可 p132-p142 川辺町史編さん室 編 1996年
  • 『美濃加茂市史 通史編』 古代・中世 第四章 封建制度の確立と南北朝・室町の情勢 三 織豊政権と森氏の支配 肥田玄蕃允 p271-p272 美濃加茂市 1980年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』 第十二編  近世封建社会 第一章 安土桃山時代 ■長可 加茂郡の諸城を陥れる p410~p411 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『中津川市史 上巻』 第四編 中世 第四章 安土・桃山時代 第五節 支配者交代 ニ 木曾氏と中津川 p646-p648 中津川市 1968年

脚注

  1. ^ a b 岡田文園, 岡田, 啓, 1781-1860『新撰美濃志』1931年、507頁。doi:10.11501/1211634https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1211634 
  2. ^ 「米田城主肥田氏」『川辺町史』 通史編、岐阜県加茂郡川辺町、1996年、132 - 133頁。 
  3. ^ 米田之庄肥田軍記
  4. ^ a b 「肥田軍記」『川辺町史』 通史編、岐阜県加茂郡川辺町、1996年、135 - 139頁。 
  5. ^ 「肥田氏」『川辺町史』 通史編、岐阜県加茂郡川辺町、1996年、129頁。 
  6. ^ a b c 「肥田玄蕃允」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、383頁。ISBN 9784642014571 
  7. ^ 甫庵太閤記
  8. ^ 兼山記
  9. ^ 米田之庄肥田軍記
  10. ^ a b 「肥田氏後日談」『川辺町史』 通史編、岐阜県加茂郡川辺町、1996年、139 - 142頁。 

注釈

  1. ^ 実際には永禄8年(1565年)8月の堂洞合戦で堂洞城は落城し、岸信周は討死している。



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