老齢での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:45 UTC 版)
天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。 紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。 敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は、総大将を趙括に交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。 紀元前251年、長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は鄗(現在の河北省柏郷県北部)で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕の都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。 また、秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、同年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。
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