習温
習温の父習珍は呉の潘濬に殺されたが、どういうわけか習温は呉に仕えている。習温が十数歳のとき、潘濬は「この児は名士だ。必ずや我が郷里の議論を主導することになるだろう」と言い、自分の子弟たちを彼と付き合わせた《襄陽記》。 習温は見識高く度量大きく、長沙、武昌太守、選曹尚書、広州刺史を歴任した。宮仕えは三十年に及んだが、名誉を手に入れたり権力と手を結んだりはせず、のんびりと暮らした。晋の時代になると習温は洛水のほとりに別邸を構え、休暇を取ったときはいつもそこで宴会を催したが、酒一石を飲まなければ酔わなかった《襄陽記》。 長子習宇は執法郎であったが、急用であわただしく家に立ち寄ったことがあり、そのとき馬車に付き従う者たちはきわめて盛大であった。習温は腹を立てて「乱世に生まれたからには、たとい出世しても、貧しさに耐えて初めて災禍を避けることができるのだ。それなのに他人と贅沢を競うとは!」と言って習宇を杖で打った《襄陽記》。 むかし習温は呉の荊州大公平を務めていたことがあるが、潘濬の子潘秘が彼のもとを訊ねて、別れ際に「先君(ちち)はむかし君侯(との)が郷里の議論を主導するとおっしゃり、現在その通りになりました。では故郷のうち誰が(あなたの)後任になるでしょうか?」と問うと、習温は「君以上の者はいないよ」と答えた。果たして潘秘はのちに尚書僕射となり、習温の後任として大公平となり、故郷の誉れとなったのである《潘濬伝・襄陽記》。 習温・潘秘ともに尚書を経験しており、思うに荊州大公平は尚書職と兼務されたのだろう。とすれば荊州に呉の都が置かれていた時期に任官されたことになる。 【参照】習宇 / 習珍 / 潘濬 / 潘秘 / 荊州 / 呉 / 広州 / 襄陽郡 / 晋 / 長沙郡 / 武昌郡 / 洛水 / 刺史 / 執法郎 / 尚書僕射 / 選曹尚書 / 大公平 / 太守 |
習温
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 05:50 UTC 版)
習 温(しゅう おん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。荊州襄陽郡の人。
生涯
父の習珍は呉の潘濬の討伐を受けて自害したが、自身は呉に仕えた。見識深く、度量が大きく、長沙太守・武昌太守・選曹尚書・広州刺史を歴任した。呉の朝廷に仕えること30年に及んだが、大きく名声を挙げることも、権力者と結託することもなかった。酒は一石を飲まねば酔わず、洛上にある別荘では休暇ごとに沐浴し、そこで宴を開いた。
長子の習宇は執法郎の官にあったが、慌ただしく家に帰宅した時、馬車には甚だしく従者を従えていた。習温はこれに怒り、杖で殴りながら「この乱世においては貴人となっても、貧しさに耐えて初めて滅亡を免れるというもの。にもかかわらず奢侈を競うとは何事か」と叱責した。
習温が10代の頃、潘濬は「この子は名士となり、必ずや我が州の議論を主導することになるだろう」と彼を評価し、自身の子弟と交際させた。その評価通り、習温は荊州の大公平(州人の評価を定める役職)の官に上った。潘濬の子の潘祕が習温に「かつて私の父は『貴方が我が州の議論を主導することになるだろう』と語り、現在その言葉通りになりました。また貴方の立場を継ぐ者は誰でしょうか?」と尋ねると、それに答えて曰く。「君以上の者はいない」と。潘祕もまた習温の後を継いで公平となり、州里の誉れとなった。
出典
- 習鑿歯『襄陽記』巻1(ウィキソース中国語版)
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