美術における夢山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:45 UTC 版)
「愛宕山 (甲府市)」の記事における「美術における夢山」の解説
江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重が甲府道祖神祭礼の幕絵制作のために甲斐を訪れており、幕絵制作のほか甲斐の名所をスケッチし、『甲州日記』として残されている。『甲州日記』には夢山をスケッチした図があり、裏富士を詠んだ狂歌三首も残されている。 広重は後に『甲州日記』のスケッチを作品に活用しているが、嘉永前期には『甲斐夢山裏富士・駿河不二ノ沼』の双幅を作成している。これは嘉永4年(1851年)に羽前国天童藩が御用金の謝礼として御用商人に与えた肉筆画で、甲斐の夢山と東海道の富士沼(静岡県沼津市・富士市)から見える富士山を描いている。 また、広重は嘉永5年(1852年)頃に錦絵の連作『不二三十六景』を刊行している。『不二三十六景』は各地の富士山の見える風景を描いた連作で、甲斐を描いた三図のなかに「甲斐夢山裏富士」がある。
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