美作復帰
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その後、祖父尚春と共に美作国に復帰。永禄7年(1564年)12月、高田城を占拠していた三浦貞勝が三村家親の調略に掛かった金田氏の裏切りによって自害に追い込まれた後、貞勝の遺児である三浦桃寿丸の身柄を保護したのが清冬であるという。祖父と行動を共にしていたのならば永禄8年(1565年)8月の時点で美作の原田(現岡山県久米郡美咲町原田)に在中し、同年10月頃には旧領回復を実現させ、三浦貞広や大河原貞尚を美作へと迎え入れた事になる。 尼子氏の衰退後、三浦氏は浦上宗景の計らいで高田の領有を引き続き認められ、浦上と敵対する毛利元就の勢力圏となっていた岩屋城の中村則治などと争っていたが、永禄11年(1568年)2月に毛利軍の足立信泰・宇山久信らの攻撃によって三浦貞盛が自害に追い込まれ、高田城も降伏開城させられた上で毛利軍に奪われた。毛利軍は城代を足立信泰とし、香川光景・長就連らを増員して高田の守りとした。
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美作復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:17 UTC 版)
永禄7年(1564年)12月、三浦貞勝は三村家親の調略に掛かった金田氏の裏切りによって自害に追い込まれた。永禄8年(1565年)8月の時点で尚春は美作の原田(現岡山県久米郡美咲町原田)に在中しており、尼子義久はこれを謝して「晴久契約之地」を貞広に安堵し尼子氏公認での高田復帰が叶う事となった。同年10月頃には尚春は旧領回復を実現させたようで、三浦貞広や大河原貞尚も美作へと入って政務に取り組んでいる。 その後も尼子への臣従関係は続いており、永禄9年(1566年)2月に尚春が寺社を建立しようと時も義久に伺いを立てており、義久は建立を認めると同時に段銭の免除も約束した書状が残っているが、同年中に尼子氏は第二次月山富田城の戦いで存亡の危機に立たされており、美作方面への支配力は既に無くなっていた。そのため、三浦氏は当時美作南部に勢力を広げていた浦上宗景へと接近し、同年8月には宗景の計らいで貞広の所領は安堵された。この頃から実質的に浦上麾下の勢力となっており、牧一族と見られる牧左介に宗景が送った感状なども残る。その後も浦上麾下の勢力として毛利氏の美作侵攻に抵抗して毛利方に属す岩屋城の中村頼宗などと争っていたが、永禄11年(1568年)2月に毛利軍の足立信泰・宇山久信らの攻撃によって三浦貞盛が自害に追い込まれ、高田城も降伏開城させられた上で毛利軍に奪われた。毛利軍は城代を足立信泰とし、香川光景・長就連らを増員して高田の守りとした。
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