罷免と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 04:25 UTC 版)
「カーダール・ヤーノシュ」の記事における「罷免と死」の解説
カーダールは1988年までハンガリーの権力の座にあったが、経済改革の際に行った過度な投資が対外債務の増加に拍車をかけ、1980年代後半に入るとハンガリー経済は悪化し始めた。しかし高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の改革に否定的になった。 1987年、カーダールと党の保守派は経済改革で誕生した富裕層に所得税や財産税などを課税しようとしたが、これは国民の猛反発を受け、同年秋の国民議会では政府が提出した増税案が否決された。政府提出法案が議会で否決されるという、社会主義体制下では今まで起こりえなかった事態が発生したのである。これによってカーダールと保守派は信頼を失い、1988年5月の党大会でカーダールは書記長辞任に追い込まれた。 カーダールの後継には穏健改革派のグロース・カーロイ(ハンガリー語版)首相が書記長となった。グロースはカーダール路線の継続に努め、一党独裁体制の枠内で党内民主化、党と国家の分離を行って改革を進めようとした。カーダールは党総裁という儀礼的な地位に就任した。 だが、同じく1988年の党大会で政治局に復帰したニエルシュ・レジエ(ハンガリー語版)や新たに政治局入りしたネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版)愛国人民戦線書記長らの急進改革派は民主化を推進し、社会主義体制を解体し始めた。1989年6月にはニエルシュ・レジエが新たに創設された党の最高指導職である政治執行委員会幹部会議長の座に就き、グロースは事実上失脚した。老齢のカーダールはその直前の1989年5月に病気を理由に党総裁の職を解かれて政治から完全に排除され、その後まもなく77歳でその生涯を閉じた。
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