織田・豊臣政権時の相論とは? わかりやすく解説

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織田・豊臣政権時の相論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 03:04 UTC 版)

伊勢神宮遷宮前後相論」の記事における「織田・豊臣政権時の相論」の解説

事態動き出したのは天正10年1582年)のことであり、織田信長両宮に対して造営費用3000貫を申し出て同年2月息子織田信忠経由して寄進が行われている。また、神宮権禰宜であった上部貞永造営奉行任命している。ところが本能寺の変によって信長信忠がともに死亡したため、またもや先送りとされた。 天正12年1584年)、今度羽柴秀吉豊臣秀吉)が上部貞永を介して黄金250寄進したことから、遷宮再開動き生じ、それが現実化していくと、内宮・外宮ともに自己の造営優先するように働きかけを行うようになった内宮・外宮ともに当初上部貞永通じて秀吉への働きかけ行っているが、秀吉造営そのものには関わらない態度示したために、天正13年1585年)に入ると正親町天皇上申繰り返すうになるこの中で問題になったのは、永正9年後柏原天皇勅裁時に出され綸旨解釈であった外宮はこれを「遷宮外宮から先に行う」ことを定めた主張し内宮は「遷宮順番に行う」ことを定めた主張した内宮主張沿えば、前回遷宮外宮なので、今回内宮遷宮になる)。 8月になると、正親町天皇から公家たちに対して速やかな決定指示(『兼見卿記』天正13年8月15日条)され、8月17日今出川晴季以下の公家たちがは内宮外宮の代表の意見聴いたうえで、内宮主張に理があるとして、それに基づいた正親町天皇綸旨発給された。それでも外宮側が納得しなかったために、吉田兼見提案により佐々成政討伐京都離れている秀吉帰京を待つことになった。 閏8月19日坂本城にて吉田兼見らと会見した秀吉天皇内宮優先意思持っていることを確認した上で内宮優先する旨の判物下した、これによって天正13年10月13日内宮遷宮が、2日後外宮遷宮実施されることになった

※この「織田・豊臣政権時の相論」の解説は、「伊勢神宮遷宮前後相論」の解説の一部です。
「織田・豊臣政権時の相論」を含む「伊勢神宮遷宮前後相論」の記事については、「伊勢神宮遷宮前後相論」の概要を参照ください。

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