織田・豊臣政権時の相論
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「伊勢神宮遷宮前後相論」の記事における「織田・豊臣政権時の相論」の解説
事態が動き出したのは天正10年(1582年)のことであり、織田信長は両宮に対して造営費用3000貫を申し出て同年2月に息子の織田信忠を経由して寄進が行われている。また、神宮の権禰宜であった上部貞永を造営奉行に任命している。ところが本能寺の変によって信長・信忠がともに死亡したため、またもや先送りとされた。 天正12年(1584年)、今度は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が上部貞永を介して黄金250枚を寄進したことから、遷宮再開の動きが生じ、それが現実化していくと、内宮・外宮ともに自己の造営を優先するように働きかけを行うようになった。 内宮・外宮ともに当初は上部貞永を通じて秀吉への働きかけを行っているが、秀吉は造営そのものには関わらない態度を示したために、天正13年(1585年)に入ると正親町天皇に上申を繰り返すようになる。 この中で問題になったのは、永正9年の後柏原天皇の勅裁の時に出された綸旨の解釈であった。外宮はこれを「遷宮は外宮から先に行う」ことを定めたと主張し、内宮は「遷宮は順番に行う」ことを定めたと主張した(内宮の主張に沿えば、前回の遷宮は外宮なので、今回は内宮の遷宮になる)。 8月になると、正親町天皇から公家たちに対して速やかな決定が指示(『兼見卿記』天正13年8月15日条)され、8月17日に今出川晴季以下の公家たちがは内宮と外宮の代表の意見を聴いたうえで、内宮の主張に理があるとして、それに基づいた正親町天皇の綸旨も発給された。それでも外宮側が納得しなかったために、吉田兼見の提案により佐々成政討伐で京都を離れている秀吉の帰京を待つことになった。 閏8月19日、坂本城にて吉田兼見らと会見した秀吉は天皇が内宮優先の意思を持っていることを確認した上で、内宮を優先する旨の判物を下した、これによって天正13年10月13日に内宮の遷宮が、2日後に外宮の遷宮が実施されることになった。
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