綿密な計画とその実施
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
「還住 (青ヶ島)」の記事における「綿密な計画とその実施」の解説
名主の次郎太夫は青ヶ島復興に取りかかるにあたり、綿密な計画と準備を行っていった。文化14年(1817年)の時点で青ヶ島島民は177名であったが、まず強健な男性27名を選抜して復興事業にあたらせることにした。27名のうち7名は青ヶ島 - 八丈島間の船の航行を担当し、残りの20名で青ヶ島の復興にあたることとした。復興事業はまず住居の再建、そして食糧の貯蔵倉庫の建設を行うこととし、その後、農作物の栽培を開始するといった計画を立てた。 また次郎太夫の計画は復興費用の節減にも力を注いだ。当初計画では復興にかかる諸費用は126両あまりと算定した。このうち約117両は天明6年(1786年)に高村三右衛門が青ヶ島島民のために拠出した500両の運用金と、寛政元年(1789年)に青ヶ島の復興開発費として幕府から支給された257両2分銀6匁の残余金でまかなうとし、不足分の9両あまりは翌年の500両の運用金を前借りする形としたいと申し出た。 次郎太夫は実際に青ヶ島の復興に携わる島民たちに対し、九か条にわたる懇切丁寧な約定を申し渡した。約定の中でもっとも強調されているのは復興にあたり、どのような事態においても一致協力して事態にあたる「和」の精神であった。また次郎太夫の指示は具体的かつ実際的でもあった。たとえばこれまでの青ヶ島の復興で大きな障害となった青ヶ島 - 八丈島間の船の運航に関しては、天候状況を綿密に観察し、船長の独断で決めることなく、ほかの乗組員の意見もふまえ、これで大丈夫というときに出航すべきとした。実際これまで多くの船が難破、遭難して復興に大きな支障をきたしていた青ヶ島 - 八丈島間の船は、次郎太夫が名主に就任したあとは一度も遭難することがなく、すべて無事に運行されるようになった。
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