絹織物・養蚕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
絹糸・絹織物は、漢代以来の京東路・河北路(山東・河朔)と益州が最も品質が良く高名で、新興の梓州がこれに加わる。生産量の面では、気候に恵まれ年に8回養蚕を行えると謂われた江浙地方が営む家も多く最も盛んであった。 皇帝・高級官僚が着る錦綺・鹿胎・透背・綾などの高度な技術を要する高級品は、四川・京東・河北路の絹製品が多かったが、生産量で見た場合には南東諸路が優り、江東・両浙の三路で全体の3分の1を占める。 生産形態について。唐代までの絹生産は政府へ納める税としての性格も強く、農業の兼業としての絹生産が多かった。宋代に入ると、商品価値がより強調され、次第に生産に有利な地方への集中と養蚕・機織の分業が進むと共に、桑の接木や蚕飼育の改良が進められ、華北産の魯桑から葉が厚くて筋張っていない蚕のよく育ち作る糸の量が多くなる湖桑への移植が急速に進んだ。 季節が来ると養蚕地の農民は蚕市と呼ばれる市場で養蚕の器具と桑を買い入れた。桑は木の状態で購入して育てる場合と葉で購入して養蚕に使う場合があり、葉に付いては値段の上下が激しく投機の対象となったという。養蚕の後、生糸に紡いだ状態で販売する場合もあれば、織って販売する場合もあった。 当時の価値で10人家族で10箔(蚕10匹)で養蚕・製糸・機織まで行えば一家が生活出来たという。 また、絹織物への装飾としての刺繡も盛んに行われるようになった。現在までこの伝統は受け継がれ、開封の刺繡は汴繡(べんしゅう)の名で知られている。
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