経営順調
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:12 UTC 版)
1897年(明治30年)には磐城炭鉱が常磐炭田全体の生産量の51%を占めた。翌年には内郷に斜坑と町田立坑を作った。1905年(明治38年)に内郷の町田立坑で大きな出水があった。1909年(明治42年)10月9日には磐城炭鉱の小野田炭坑で大規模な出水があり、いわき湯本温泉の湧出量が激減して十分の一になり、飲料用の湧水も減少したので温泉客が減少し景気が悪化したので、湯本村が鉱山監督局と県に陳情したところ、知事の西久保弘道が炭鉱との賠償交渉を仲裁した。その結果1910年(明治43年)12月に和解が成立し、磐城炭鉱・三星炭鉱・入山採炭が出炭1トン毎に2銭を湯本村に十年間贈与することになった。浸水で水没し排水不能のまま放置されていた三星炭鉱を、1915年(大正4年)に買収し、大金をかけ最新技術を導入して排水に成功し綴坑と命名した。1917年(大正6年)に住吉坑を開さくした。1919年(大正8年)に資本金を100万円から600万円に増資し、翌年に900万円に増資したが、1925年(大正14年)12月に茨城採炭(多賀地区の千代田と重内)を合併して1075万円に増資した。優良企業として1892年(明治25年)から1926年(昭和元年)まで配当を継続した。
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