第1期:クレア家(1138年 - 1220年)
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「ペンブルック伯」の記事における「第1期:クレア家(1138年 - 1220年)」の解説
ギルバート・ド・クレア (初代ペンブルック伯) (1100年 - 1147年) リチャード・ド・クレア (第2代ペンブルック伯) (1130年 - 1176年) ギルバート・ド・クレア (第3代ペンブルック伯) (1173年 - 1185年) イザベル・ド・クレア (第4代ペンブルック伯爵夫人) (1172年 - 1220年) ギルバートの息子リチャード・フィッツギルバート・ド・クレアは「ストロングボウ」(強弓)と呼ばれ、父と同様スティーブン王に仕えた。この為プランタジネット朝(アンジュー家)始祖でスティーブン亡き後イングランド王に即位したヘンリー2世から疎まれ、ギルバートが1148年に死去した際、ヘンリー2世はリチャードがペンブルック伯位を継承することを拒否し、わずかにストリギルの支配権のみ認めたようである。 ヘンリー2世に相続権を奪われ負債が溜まったリチャードは、1168年に元の権利を取り戻す機会を得ることができた。この年、彼は当時王国を追放されていたレンスター王ダーモット・マクマロー(en)の支持を得てアイルランド遠征軍を率いる役目に選任された。1170年にリチャードは自ら進軍しウォーターフォードとダブリンを攻略、ダーモットの娘イーファと結婚した。これによってダーモットが同年に死去した際、リチャードはレンスター王位継承を主張している。ヘンリー2世は彼の権力を恐れたため、同年にリチャードから領地を奪いとり、1171年にアイルランドへ攻め入ると権力を掌握した。1173年、ヘンリー2世の息子らが反乱を起こした際、リチャードはアイルランドにおける支持と権力を得るために帰還、3年後の1176年にアイルランドの有力者と激しい戦いの末に死去した。 リチャードが死去した時、息子のギルバート・ド・クレアは未成年であり、ペンブルック伯位を正式に継承しないまま1185年に死去した。ギルバートが死ぬとその姉のイザベル・ド・クレアが自分の権利として、1220年に死去するまでペンブルック伯爵夫人(女伯爵)となった。父、弟の伯位継承に問題があるわけだから、彼女は初代伯爵である祖父のギルバート以後、最初にペンブルック伯位を継承したともいえる。そうすると、イザベルを第4代ではなく第2代伯爵夫人として計算するべきであるともいえる。いずれにせよ、伯爵位は彼女の夫にしてジョン・ザ・マーシャルとソールズベリー伯パトリックの甥で姉妹シビルの息子サー・ウィリアム・マーシャルに継承された。
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