第二次アラブ・ハザール戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:41 UTC 版)
「アラブ・ハザール戦争」の記事における「第二次アラブ・ハザール戦争」の解説
二つの勢力間の関係は8世紀初頭まで比較的平穏な状態が続いた。しかしながら、その頃までに戦争の新たな段階への舞台が整えられることになった。ビザンツ帝国はすでにコーカサスにおける政治的な影響力を失っており、ウマイヤ朝は705年にアルメニアの大規模な反乱を鎮圧すると支配力を強化し、アルミニヤ(英語版)州を設置してアルメニアを直接アラブの統治下に置いた。そしてすぐにアラブとハザールはコーカサスの支配をめぐって直接対立することになった。現代のジョージアを含む南コーカサスの北西部のみが二つの対立勢力のいずれかによる直接的な支配から逃れていた。 紛争は早ければ707年に再開され、カリフのアブドゥルマリク(在位:685年 - 705年)の息子でウマイヤ朝の将軍であるマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)が、アーザルバーイジャーンと当時ハザールの支配下にあったと考えられているデルベントへ至る軍事行動を展開した。デルベントへのさらなる攻撃は、708年のムハンマド・ブン・マルワーンによるものと、翌709年のマスラマによるものが複数の史料によって言及されているものの、デルベントを奪回したと考えられる最も可能性が高い日付は、713年もしくは714年のマスラマの遠征によるものである。その後マスラマはハザールに従属していた北コーカサスに居住するフン(英語版)の征服を試み、ハザールの領土の奥深くまで侵攻した。ハザールは将軍のアルプ・タルカン(英語版)の下でマスラマと戦うだけでなく、対抗して南方のアルバニアへの襲撃に乗り出した。717年、ハザール軍が大挙してアーザルバーイジャーンを襲撃したものの、ウマイヤ朝のカリフのウマル2世(在位:717年 - 720年)によって派遣されたハーティン・ブン・アル=ヌゥマーンの指揮するアラブ軍によって追い返され、ハーティンは50人のハザールの捕虜を伴いカリフの下へ帰還した。
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