第三段階:1919年7月〜1919年8月
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「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「第三段階:1919年7月〜1919年8月」の解説
連合国理事会はルーマニア軍が承諾なしにティサ川まで前進したことにひどく腹を立てていた。理事会の中ではハンガリーでの紛争に関してルーマニアを非難して、当初の境界線まで即座に撤退させるとともにルーマニア軍を縮小させるべきとの意見もあった。理事会はルーマニア政府へクン政権との話し合いを始めるべきであると説得した。だが、ルーマニア政府はティサ川はルーマニアとハンガリーとの最終的な国境線が確定し、国際的な承認が得られるまでのあくまでも軍事上の境界であると主張した。 理事会はクン政権にもチェコスロバキアへの攻撃を止めなければ、フランスとセルビアそしてルーマニアが南方と東方から攻撃をかけると圧力をかけた。理事会はまたハンガリーに対して国境線に関するその後の和平会談においては善処するとも約束した。この状況下において、6月12日にハンガリーはチェコスロバキアと休戦協定を結び、ハンガリー軍は境界線から15km南方へ後退した。理事会はまたルーマニアに対してティサーントゥールから退去し、新しい国境線まで後退するよう要求したが、ルーマニアはこれを拒否してハンガリーが動員解除しない限り従えないと返答した。理事会代表を通じてルーマニアの要求を知らされたクンは、もはや軍の力のみに頼るだけだと答えた。 7月11日、この知らせを受けた理事会はセルビア、フランスそしてルーマニアによる共同攻撃を行うと決定した。作戦計画はフォッシュ元帥に任される。だが、チェコスロバキアとの休戦が成立すると即座にクンはティサ川のルーマニア軍に対する動員を行い、7月17日にハンガリー軍は攻撃を開始した。
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