竹越与三郎の一文
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ハイカラという語の流行のきっかけとなった1900年(明治33年)8月10日送別会の主である竹越与三郎が、その著『萍聚絮散記』の「陶庵先生」の章に、この送別会とハイカラの語について短く触れている部分がある。それを下に引用する(同書 p125-126、旧漢字は新漢字に変更してある)。 余が一昨年を以て海外に遊ばんとするや、親朋故旧余が為めに送別の莚を張る中に少壮なる英仏学士の催しになりし一会あり、席上、一友人がハイカラを着け洋服を着くるの利を述ぶる者あり、之より余が(p125/p126)外遊中、高襟党なる文字新聞に現はれて、少年学士を讒謗毀傷するの具となり、彼等が殆ど完膚なからんとするや、西園寺侯は自ら進んで新聞記者に対して、高襟党の首領なりと称し、少年学士に対する攻撃を一身に引受けんとしたりき、思ふに善良なる意義に於ける高襟党の首領としては、何人も彼の統治権を犯さんとするものあらざるべし、故に人或は侯を以て、英国のローズベリー卿に比す、其貴族にして、平民に同情あり、其品格の崇高なる、其識見の秀徹なる--(以下略) 文中に「余が外遊中、高襟党なる文字新聞に現はれて」とあるが、実際には竹越の送別会よりずっと以前から石川半山が新聞紙上で使っていたのは上記のとおりである。しかし逆にこの一文は、竹越の送別会の新聞記事がきっかけとなって流行したという石井研堂の説を裏付ける。
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