竹越与三郎の一文とは? わかりやすく解説

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竹越与三郎の一文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 09:59 UTC 版)

ハイカラ」の記事における「竹越与三郎の一文」の解説

ハイカラという語の流行のきっかけとなった1900年明治33年8月10日送別会の主である竹越与三郎が、その著『聚絮散記』の「陶庵先生」の章に、この送別会ハイカラの語について短く触れている部分がある。それを下に引用する同書 p125-126、旧漢字は新漢字変更してある)。 余が一昨年を以て海外に遊ばんとするや、親朋故旧余が為めに送別張る中に少壮なる英仏学士催しになりし一会あり、席上、一友人ハイカラ着け洋服を着くるの利を述ぶる者あり、之より余が(p125/p126)外遊中、高襟党なる文字新聞に現はれて、少年学士讒謗毀傷するの具となり、彼等が殆ど完膚からんとするや、西園寺侯は自ら進んで新聞記者に対して、高襟党の首領なりと称し少年学士対す攻撃一身引受けんとしたりき、思ふ善良な意義に於ける高襟党の首領としては、何人も彼の統治権を犯さんとするものあらざるべし、故に或はを以て英国ローズベリー卿に比す、其貴族にして、平民同情あり、其品格崇高なる、其識見の秀徹なる--(以下略文中に「余が外遊中、高襟党なる文字新聞に現はれて」とあるが、実際に竹越送別会よりずっと以前から石川半山新聞紙上で使っていたのは上記のとおりである。しかし逆にこの一文は、竹越送別会新聞記事きっかけとなって流行したという石井研堂の説を裏付ける

※この「竹越与三郎の一文」の解説は、「ハイカラ」の解説の一部です。
「竹越与三郎の一文」を含む「ハイカラ」の記事については、「ハイカラ」の概要を参照ください。

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