竜雲に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/08 15:26 UTC 版)
※注意 ここには戦死した胡若愚の遺体写真画像があります。画像をご覧になりたい方は右端の「表示」をクリックしてください。 まもなく胡若愚と竜雲との間で、主導権争いの対立が激化する。6月14日、胡は竜に先制攻撃を仕掛けて、これを捕虜とした。しかし、竜配下の盧漢は昆明から脱出し、雲南軍でも声望の高かった胡瑛を擁立して、胡若愚への反撃を開始する。戦局不利となった胡若愚は、やむなく竜を解放し、いったん昆明を離れた。胡若愚は、張汝驥に加え、貴州省政府主席周西成とも連携して、竜への反撃を試みた。しかし1929年(民国18年)7月、胡若愚は完全に敗北して雲南を追われてしまう。 その後の胡若愚は、李宗仁ら新広西派に与した。反蒋介石の軍事活動にも参加したが、失敗に終わる。1933年(民国22年)から、胡はドイツへ留学して軍事を学んだ。1936年(民国25年)夏に帰国している。翌年に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、胡は李のいる第5戦区の代理参謀長に任命された。その後も各職を歴任している。 日中戦争終結後、胡若愚は、いったん退役した。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選し、李宗仁の副総統当選のために尽力している。1949年(民国38年)2月、雲南出身の第58軍軍長兼第11兵団司令魯道源(白崇禧配下)の推薦により、胡は同兵団副司令として軍に復帰した。9月、胡は第58軍軍長となる。その後、病のため入院した魯に代わって第11兵団を率いることになる。 同年11月28日、広西省容県で、胡若愚は中国人民解放軍と交戦した。しかし敗北して軍を殲滅され、胡自身も銃弾を浴びて戦死した。享年56。
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